戦国時代の武将・大名であった真田昌幸。
彼は関ヶ原の戦いに臨むにあたり、自身は次男の幸村と共に西軍につきました。
しかし、お家存続のために長男の信之には東軍につかせて「犬伏の別れ」をしました。
それによって、真田家の石高は戦後どのようになったのでしょうか。
この親子兄弟が両陣営に分かれたことが結果として、プラスになったのかを見ていきます。
真田親子の犬伏の別れ
1600年、豊臣家の持ち城である伏見城に居座っていた徳川家康は何度要請しても上洛しない上杉景勝にしびれを切らし、「豊臣家に反する者」として上杉家のある会津征討に向かいました。
真田昌幸・幸村は上田城から、信之は沼田城からこの会津征討軍に加わりました。
しかし、昌幸・幸村が下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書簡が届きます。
そこには家康こそが豊臣家にとってのガンであること、それを退治するために挙兵し伏見城を攻略するということ。そして、真田親子への参戦要請が書かれていました。
これを受け取った昌幸・幸村は信之を呼び寄せて父子3人で談合を行いました。
結局昌幸・幸村は西軍(三成軍)につき、信之は東軍(家康軍)につきました。
なぜ父弟と兄は別れたのか
なぜ血をわけた三人が違う道をたどったのかは次のような理由があげられます。
- 天下分け目の大きな戦いになると予想できたので、どちらの軍が勝っても真田家が存続できるようにという説
- それぞれの妻との関係:昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹(異説あり)、幸村の妻は三成の親友の大谷吉継の娘、信之の妻は徳川家重臣:本多忠勝の娘、小松姫であったからという説
犬伏の別れ後の昌幸・幸村
この二人の親子は石田三成に味方するとの返書を送り、会津征討軍から離れ本拠地の上田城に戻りました。
そして、関ヶ原の戦いにおいては上田城に籠城していました。
徳川秀忠(家康の三男)が大軍を率いて攻めてきたとき(第二次上田合戦)も、少数の軍隊でこれを撃退しています。
しかし、三成軍は徳川軍に敗北し、本来なら昌幸・幸村親子は敗戦の将として死罪を言い渡されるところでした。
信之と本多忠勝の助命嘆願により二人は流罪にとどまり、紀伊国高野山九度山に蟄居を言い渡されました。
犬伏の別れの後の信之
父・弟と袂を分かった信之は、徳川軍に加わりました。
そして、秀忠軍に属して第二次上田合戦に赴き、父と弟が籠城する上田城を攻撃しました。
関ヶ原の戦いが終わった後は、元々の本拠地である沼田2万7000石に加え、父と弟の旧領である上田3万8000石を与えられ(上田城は破却)、さらに加増3万石、合わせて9万5000石の大名となりました。
つまり、真田家は信之をもって存続し、石高も増えたということになり、昌幸が両陣営につく事で真田家が存続させようという目論見は成功をします。
後に、信之はさらに加増となり、10万石の所領を得て、子孫にその名を残し、93歳でこの世を去りました。