犬伏の別れの後 真田信之は関ヶ原の戦いをどう戦ったのか!?
真田幸村の兄にして、弟と袂を分かって東軍についた真田信之。
真田兄弟の別れは戦国時代の悲劇として注目されるテーマです。彼はなぜ、東軍についたのでしょうか。
その理由、そして彼が関ヶ原の戦いにどう関わったのかを解説したいと思います。
互いの考えを尊重しあった結果、東軍へ
真田信之が父や弟と袂を分かち、東軍についたのは二つの理由がありました。
一つは亡き豊臣秀吉の計らいで一時、徳川家康に仕えていてその人柄を尊敬していたこと、そしてもう一つは信之の妻:小松殿の存在です。
小松殿は徳川家康の重鎮本多忠勝の娘で、家康の養女となってから真田信之に嫁ぎました。
この事からも家康の信之への信頼は絶大で、信之もまた家康の信頼に深く感謝していました。対して父:真田昌幸は石田三成と同じく宇田頼忠の娘を娶った義兄弟の関係であり、弟真田幸村の妻は石田三成の盟友:大谷吉継の娘でした。
この縁戚関係が父子それぞれの道の決め手となり、信之は東軍、昌幸と幸村は西軍につく事になります。しかし、これは喧嘩別れではなく一晩かけて話し合い、それぞれの考えを尊重し、分かりあった上での決別であり、真田家を存続させる為の決断だと言われています。
関ヶ原の戦いの本戦には参加せず
関ヶ原の戦いでは真田信之は徳川秀忠の軍に属し、810人の兵力を率いて上田城攻め(第二次上田合戦)に参加しました。
戦いの前に義弟の本多忠政と共に父の説得に赴きますが、結局失敗に終わったとされています。
信之は弟幸村が防衛する戸石城の攻略を命じられますが、真田兵同士の消耗を避ける為、開城請求の使者を派遣、幸村も兄の意を汲み開城に応じました。
信之は入城後守備へと回り、幸村は昌幸のいる上田城へ撤退しました。
なお、秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加することができませんでした。
この為、真田信之も関ヶ原の本戦には参戦していません。
戦後処理と真田家の存続
関ヶ原の戦いの後、真田信之は昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5千石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となりましたが、上田城は破却を命じられました。
その為、信之は引き続き沼田城を本拠としました。戦後最も苦心したのは西軍についた父と弟の助命嘆願で、西軍に付いた父との決別を表すために、名をそれまでの信幸から信之に改めています。
義父の本多忠勝や妻:小松殿の助けもあり、昌幸らは助命されて紀伊九度山への流罪となります。
その後も家康の信之への信頼は変わる事はなく、大阪夏の陣が終わった後には松代藩に移封され、13万石の所領を与えられました。
信之は93歳の高齢で人生を終えますが、真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入って信之の系統は断絶したものの、明治には子爵(後に伯爵)家になりました。
昌幸の望み通り、信之から繋がった血脈は長く真田家を存続させたのです。
まとめ
真田信之の生涯を辿ってみると家族に恵まれた人だと思います。
道を分かっても続いた昌幸や幸村との交流もありますし、彼らの助命には妻の小松殿や義父の本多忠勝も協力してくれました。
だからこそ、父や兄と戦わなければいけなかった彼の運命を余計に辛く感じてしまいます。