真田信之と妻・稲姫の夫婦仲は?
幸村の兄・信之には稲姫(小松姫)という妻がいます。
二人はどんな夫婦だったのでしょうか。
二人の馴れ初め
二人の結婚話が持ち上がったのは、天正15年(1587)。信之が初めて徳川家康に謁見した時のことでした。
上田合戦で真田軍の軍略の前に惨敗を喫した徳川四天王の一人・本多忠勝は、真田家を取り込むために、娘・稲姫を真田家に嫁がせることを家康に提案していました。
秀吉の命で徳川の与力大名となることになった昌幸は、信之を家康に仕えさせることを願いでます。いわば人質として差し出されたのです。
しかし、家康は信之を一目見て気に入ったといいます。
そこで、忠勝の提案を飲み、稲姫を嫁がせることにしたというわけです。
ところがこれを父・昌幸は了承しませんでした。一国一城の主である昌幸の嫡男・信之に徳川の家臣の娘では身分違いであるということでしょう。
そこで、家康は稲姫を一旦自らの養女として信之に嫁がせました。
徳川家と真田家、双方の考えが入り混じる政略結婚だったのです。
信之の支えとなった稲姫
稲姫は小松姫ともいい、家康や秀忠にもはっきりとものをいうことのできる勝気な女性であったと伝えられています。
そのためか、信之が戦で城を留守にする時には、城のすべてを稲姫に任せていました。
有名なエピソードに、関ヶ原の戦いのときのものがあります。
1600年(慶長5)、信之は父・昌幸と弟・幸村と訣別し、一人徳川方につくことを決めます。
袂を分かった昌幸が、居城である上田城に向かう途中、稲姫が留守を守っていた沼田城に立ち寄りました。
しかし、稲姫は「非常のこのとき、どなたであれ、主の留守にこの城門をお通しすることは出来ませぬ」と昌幸らの入城を拒否したといいます。
白鉢巻きを締め、甲冑に身を固めた稲姫の姿は錦絵にも描かれています。
その一方で賢明で愛情深い一面もあり、信之が関ヶ原合戦後に父と弟の助命嘆願を行った際には、信之の後ろ盾となってもらえるよう本多家に働きかけています。
その後、九度山に蟄居した昌幸や幸村に信濃の名産品などを贈って慰めたといいます。
二人の夫婦仲は?
二人の夫婦仲がよくわかるのが、小野お通のエピソードです。
小野お通は、詩歌や琴、書画など様々な芸術に秀でた才女であったといわれる女性です。
晩年になり体が弱ってきたことを知った稲姫は「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と小野お通を側室とすることを勧めたといわれています。
信之には稲姫以外にも玉川秀政の娘・右京と真田信綱の娘・清音院という側室がありました。そうした側室とも良好な関係を築いていたと言われており、それも夫婦仲が良好であった証といえるのではないでしょうか。
病にかかった稲姫は湯治のため草津温泉に向かう途中、武蔵鴻巣というところで亡くなりました。
その際、信之は「わが家から光が消えた」と、大いに落胆したといわれています。
互いに慈しみ、尊敬し、支えあう。
二人にはいつの時代にも夫婦が睦まじくあるために必要なことが備わっていた、そう思います。