真田幸村には信之という一つ年上の兄がいます。
この信之は1600年の関ヶ原の戦いにおいて東軍・徳川家康方につき、父・昌幸と弟・幸村と訣別することになりました。
なぜ彼は家康方についたのでしょうか。幸村との兄弟仲はどうだったのでしょうか。
よくわかっていない幼少期
弟・幸村同様、信之の幼少期についての詳細はよくわかっていません。
1565年(永禄9)に誕生した信之は、父・昌幸が甲斐(現在の山梨県)の武田家に臣従していたため、その幼少期を武田家の人質として過ごしました。
信之の名前が初めて史料に見えるのは、元服した天正7年ごろのことです。
1582年(天正10)、17歳のとき織田信長の武田征伐により武田家が滅亡すると、母とともに真田家に戻り、その年には対・北条戦で軍功を挙げています。
一方、幸村は信之誕生の翌年、1567年(永禄10)に誕生していますが、1584年(天正12)には上杉家に人質として送られています。
また、その2年後には秀吉の人質として大坂に移されていますので、二人が真田家で共に過ごしたのは信之が真田家に戻った1582年から幸村が上杉家の人質となった1584年までの2年足らずということになるでしょう。
父・弟と訣別 その理由は?
1600年(慶長5)、三成の密書を受け取った昌幸と信之・幸村兄弟は、下野国犬伏においてどちらに与するべきかの密談を行いました。
その結果、信之は父・弟と訣別し、一人家康に忠誠を尽くすことを決めます。世にいう「犬伏の別れ」です。
なぜ彼は父・弟と違う道を歩むことにしたのでしょうか。
その理由として言われているのが、妻・小松姫の存在です。
小松姫というのは、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘です。
1587年(天正15)に初めて謁見した際、信之は秀吉の命により徳川の与力大名となります。その時、家康が信之の誠実さに惚れこみ、娶らせたのが小松姫と言われています。
また、秀吉の家臣であった昌幸・幸村に対し、家康の家臣として順調に出世していた信之には、秀吉亡き今天下をとるのが家康であることは明らかだったことでしょう。
そしてもう一つの理由として、信之の性格があると考えられます。
父・昌幸という人物は「武人たる者、天下に打ってでる気概なくしてなんとする」が口癖だったといわれるほどの野心をもった人物です。そして弟・幸村も同じ気質をもっていました。
しかし、信之は違いました。自分は天下を望む器量ではないと自覚していました。ゆえに、困難に耐え、地道に努力を続け、一歩一歩徳川家を築き上げた家康に尊敬するところもあったと思います。
こうして父・弟と訣別することを決め、徳川秀忠軍に属し父と弟の守る上田城攻略に加わることになりました。
父・兄のために決死の嘆願
関ヶ原の戦いの後、信之は昌幸の所領である沼田など3万石を加増され9万5000石の大名となりました。
その一方で、三成方についた昌幸・幸村が首をはねられることは明らかでした。実際、家康は「昌幸と幸村の首を取って来れば100万石を与える」という朱印状を信之に送りつけています。
100万石とは大出世です。上田合戦で多くの犠牲を出した家康でしたから、これを期に危険分子となりそうな二人を消してしまいたいと考えていたのかもしれません。
しかし、信之はこの朱印状と引き換えに、二人の助命を嘆願します。二人の代わりに自分の首を差し出そうとしたのです。
真田家を守ることができるのは自分ではないという思いがそうさせたのかもしれません。
信之のこの行動はたちまち他の大名たちの噂するところとなり、その忠義をほめたたえました。
この状況で信之や昌幸・幸村の首を刎ねれば、必ずや批判を受けることになるでしょうし、自ら兵を動かして二人の首を獲りに行けば少なくない数の犠牲をうむ可能性がありました。
家康はこうした状況の中で信之の嘆願を聞きいれ、二人は九度山への蟄居という処分に終わったのです。
大坂の陣で信之は幸村と通じていた?
大坂の陣の後、真田忍者の一人・馬場主水が信之が密かに幸村と通じていたと幕府に訴えました。
しかし、これは馬場主水が百姓の娘を強姦し、それにより死してしまったことで死罪を言い渡されていたことの腹いせに行ったこととだったというのが真相です。
ところが実際、信之は京に出た際、愛人・小野お通の家で幸村と密かに会っていたことがあったようです。
実の弟とはいえ蟄居の身にある幸村に堂々と会うことは憚られたはずで、それにも関らず密会していたのは、その健康を気遣う気持ちがあったからではなかったかと想像されます。
決して長い時を共に過ごした二人ではありませんでしたが、互いに認め合える兄弟だったのではないでしょうか。