織田信長の家臣であった細川藤孝と明智光秀。
彼らは織田家の家臣となる以前からの知り合いで、姻戚関係でもありました。
しかし、そんな繋がりがあったのにも関わらず、細川藤孝は本能寺の変で明智光秀に加担しませんでした。
それはどういう理由があったのでしょうか。
織田家仕官前
享禄元年(1528年)に生まれたとされる明智光秀は、美濃の国主となった斎藤道三に仕えます。
しかし、斎藤道三・義龍親子の戦いである長良川の戦いにおいて、道三側についたため、義龍に光秀の出生の地とされている明智城を攻められて、一族離散となりました。
その後は越前国の朝倉義景に仕えます。
一方、天文3年(1534年)に生まれた細川藤孝は、幕臣として足利義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)に起こった永禄の変で、義輝が松永久秀らに殺されます。
更にその弟:義昭が興福寺に幽閉されますが、これを助け、義昭を将軍につけるために奔走します。
その後、義昭は織田信長を含む各地の将軍に自身の将軍擁立を促し、朝倉義景にも頼ります。
ここで義昭(とその家臣の細川藤孝)と朝倉義景(とその家臣の明智光秀)が接触します。
永禄11年に義昭は、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対して、自分を征夷大将軍につけるように(斎藤道三の元家臣で姻戚関係もあり、信長の正室とも血縁関係があるとされる)光秀を通じて要請します。
信長はこれを受け入れて、義昭を奉じて入京します。
織田家家臣となる
しかし、段々と信長と義昭の対立が表面化してきます。
元亀4年(1573年)に義昭が信長に兵を出すと、その頃までに義昭と信長の両属の家臣として仕えていた光秀は義昭と決別し、信長の直属の家臣として参戦します。
一方の細川藤孝も上洛した信長を出迎えて恭順の意を表します。
藤孝は同年8月、義昭側の岩成友通を第二次淀古城の戦いで滅ぼし、武功をあげ、以降信長の武将として畿内各地を転戦します。
黒井城の戦いでは、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍します。
また、藤孝は光秀とともに、信貴山城の戦いにおいて(足利義輝を殺した)松永久秀の籠る、大和信貴山城を陥落します。
こうして二人は織田家家臣として武功をあげていきます。
信長の勧めで姻戚関係に
天正6年(1578年)信長の勧めで、細川藤孝の嫡男:忠興(1563年~1646年)と光秀の三女である玉(1563~1600:後に細川ガラシャと呼ばれる)が結婚します。
二人は仲のよい夫婦として知られ、忠隆・興利・忠利らの子宝にも恵まれました。
本能寺の変が勃発
天正10年(1582年)、光秀は羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられて、6月2日早朝に出陣しますが、その途上で反旗を翻し重臣たちに打倒信長を命じました。
そして、光秀軍は信長が泊まっていた本能寺を取り囲みました。光秀軍約13,000に対し、信長の手勢はわずか100人たらずで奮戦しました。
奮戦も虚しく多勢に無勢で最後を悟り、信長は本能寺に火を放ち、自害をしました。
これが世に有名な本能寺の変ですが、この時細川藤孝は親戚であり、親友でもあった光秀から再三の援助要請を受けていますが、これを断り、剃髪して幽斎玄旨と名乗りました。
さらに田辺城に隠居し、家督を嫡男の忠興に譲りました。
細川藤孝が光秀の味方をしなかった理由
何故、藤孝は光秀の援軍要請に応えなかったのでしょうか。
それは、この変は藤孝にとっては青天の霹靂で、細川家存続のためにも、我関せずを貫き通して情勢を見極めたかったのではないかと言われています。
また、いくら姻戚関係であり、義昭臣下時代からの知合いとはいえ、細川家は名門であり、いつまでも光秀の与力でいたくなかったからという説もあります。
光秀にとっては大誤算だった?
光秀としては藤孝は自分の味方をしてくれると思ったのでしょう。
要請を断って頭を丸めた藤孝に一度は怒った光秀ですが、本能寺の変の数日後の6月9日に最後の書簡を届けています。
そこには自分に援軍をよこして欲しいこと、自分が変を起こしたのは忠興を取り立ててやりたかったからだということ、この後50~100日の間には畿内を平定して、その後は引退しようと思っていることなどが書かれていました。
更に領地についても藤孝の意見を考慮して分け与えるということも書かれていたそうです。
ここまで書いたら味方してもらえると思ったのでしょうね。
しかし、結局光秀は藤孝に味方してもらえませんでした。
また、(藤孝と同じく光秀と関係の深かった)筒井順慶も参戦を断っています。
さらに光秀は、信長の首をとっていなかった為、他の大名の賛同を得られないまま、羽柴秀吉との山崎の戦いを迎え敗れてしまったのでした。