西郷隆盛の銅像が上野公園に置かれているのはなぜ?
薩摩藩の下級藩士の長男として生まれた西郷隆盛。薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争でも活躍を見せ、明治政府では参議や陸軍大将となりました。
しかし、征韓論を主張したところ、内治優先を説く岩倉具視や大久保利通らの反対に敗れて辞官し、郷里である鹿児島に帰りました。
そしてその後、西南戦争を起こして朝敵となってしまいました。なぜ朝敵となってしまった彼の銅像が造られることになったのでしょうか。そしてそれはなぜ上野公園に置かれているのでしょうか。
明治天皇にも愛されていた西郷
西郷隆盛は政府に不満を持った私学校の生徒に推され、盟主として西南戦争を起こしてしまいました。朝敵となった彼は約7ヶ月転戦しますが、政府軍に攻められ城山でついに自刃します。政府に盾ついた者として官位をはく奪され、一時は逆賊として扱われました。
西南戦争を起こしたきっかけについての詳細は別記事をお読みください。
しかし、明治天皇は西郷の死の知らせを聞いた時、「西郷を殺せとは言わなかった」と仰ったほど、西郷の人柄を気に入っていました。
この明治天皇や同郷の先輩として西郷を慕っていた黒田清隆らの尽力によって、明治22年、大日本帝国憲法の発布に伴う恩赦によって赦され、さらに正三位を追贈されました。
名誉回復のための銅像建立
そして、この恩赦に感激した西郷の旧友である吉井友美が、追慕の情を示すべく隆盛像の建立を計画しました。また廃藩置県、王政復古への尽力、学制の制定、国立銀行条例の発布、太陽暦採用、戊辰戦争における江戸城無血解放等、日本の礎を築いた西郷の偉大な功績を称えるためにも、銅像作成の計画が進み、御下賜金(ごかしきん/天皇から賜ったお金)や有志が集めたお金を資金として、日本の彫刻の巨匠である高村光雲が作成しました。
明治26年に起工(工事を始めること)され、明治30年に竣工(建築工事が完了すること)されました。
西郷隆盛像が上野公園にもあるわけ
西郷隆盛の銅像は上野公園のものだけではなく、鹿児島県の鹿児島市と霧島市にもあります。鹿児島出身だった西郷の銅像が鹿児島市と霧島市にあるのは納得できますが、なぜ上野公園にも置かれることになったのでしょうか。
その理由の一つとして、上野は彰義隊(徳川幕府を警護する部隊)が明治政府と戦った「上野戦争」が行われた場所であることです。その戦争の際、西郷は朝廷側の指揮官であり、朝廷軍を勝利に導いた彼の功績を称えるためだといいます。
また、明治維新の最大の功労者である西郷を逆賊として死なせてしまったことを償うために、皇室の御用地である上野に建てて西郷を顕彰し、公的に彼を弔うという意味も込めて、上野公園にも建てられたということです。