奈良時代の生活 庶民は貧しかった!?
律令国家となり、税制度も整えられて苦しい生活を余儀なくされていたという奈良時代の農民たち。そんな彼らの生活とはどのようなものだったのでしょうか。
庶民の生活状況
戸籍が作られ、6歳以上になると男女ともに田が与えられ、最低限の暮らしは保障されましたが、そこでとれた稲や特産物を納入する税金制度や労役におわれ、当時の農民の暮らしはとても貧しかったものと言われています。
この時代はまだ安定して米を収穫できる技術はなかったため、まだ農耕だけではなく、狩猟もしていたと考えられます。
多くの農民の住環境は縄文時代からあまり変わっておらず、竪穴式住居に住み、土間に藁を敷いて寝ていたそうで、住環境・衛生状態はあまり良くなかったとされます。農耕などの仕事の量は相当なものでしたが、食べ物は1日2回、1汁1菜が基本の質素な食事で、ひどい時は一食も食べれない日もあったそうです。服装もぼろぼろの麻でできた簡素なものだったので、度々飢饉に見舞われていたとされています。
庶民の生活の1日の流れ
明け方に起き、野良仕事を始め、だんだん気温が暑くなってくる前の10時頃(お昼前)には手を休めて、その日最初の食事を摂ったと考えられています。
そして、2時間ほど中休みとして昼寝をしていたそうです。それからさらに野良仕事などの仕事を終わらせて夕方、暗くなる前に1日の最後の食事を摂り、就寝するという生活でした。
この当時はもちろん電気などないので、日の出とともに起きて日没とともに就寝するという形だったのでしょう。このような習慣はかなり後の時代まで受け継がれたそうです。食事の回数については、1日3食になったのは江戸時代中期以降だとされています。
庶民の年中行事
現在の庶民の年中行事として行われている端午の節句や七夕など、多くのものはこの時代は宮中の行事として行われていたものであって、奈良時代の庶民の間にはあまり浸透していませんでした。
しかし、そんな奈良時代の庶民にも年中行事として春は豊作祈願の祭りが、秋には収穫祭が村人総出で行われたそうです。
農耕民にとって稲の出来具合というのが最も重要であり、それを願う祭りがこの頃から庶民の間で浸透していたというのはとても納得がいくことだと思います。
端午の節句は現在では男の子の健康を祈願する行事としてしられていますが、この頃は、庶民の豊作祈願の祭りと同じように、その年の稲の豊作を願う宮中の行事であったそうです。