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大久保利通暗殺事件と西郷隆盛の手紙とは!?

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大久保利通と西郷隆盛、無二の親友だった二人は時代のうねりの中で、敵対していく運命を辿ります。

世間では、冷酷な大久保が西郷を追い詰めたとされていますが、二人の関係は、そんなにドライなモノだったのでしょうか?

子供の頃からの無二の親友だった二人

西郷隆盛は1827年生まれ、大久保利通は1830年の生まれです。

家は、通りを隔てて隣同士であり、幼馴染でした。両家とも下級武士の家柄で貧乏でしたが、大久保の家はより赤貧でした。

育ち盛りの大久保は、食事時に空腹で堪らなくなると西郷の家に行き、黙って、西郷の兄弟の端っこに座ったと言います。西郷はそれを見ると、黙って兄弟の飯椀から少しずつご飯を分けて、大久保の前に出しました。大久保は、それを黙って食べると再び自宅に戻ったという逸話があります。

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明治維新後、すれ違いを始める二人

明治維新に至るまでは、倒幕という旗印の下で陰に陽に助け合ってきた西郷と大久保ですが、征韓論論争を巡って対立していきます。

さて、誤解されていますが、西郷が唱えたのは遣韓論と呼ぶべきものです。

頑なに攘夷を掲げて国を開かない朝鮮に西郷が単独で乗り込んで、朝鮮国王に近代化の重要性を説き、清・朝鮮・日本が提携して、大アジアを西洋列強から防衛する。それが、西郷の唱えた遣韓論の要点であり、万が一、それでも朝鮮が国を開かず、西郷が殺されるような事があれば、軍を派遣しても日本の大義は立つというのが西郷の意見でした。

しかし、大久保等の外遊組は、今は国外より国内をまとめるのが先として、征韓論を潰してしまいます。

西郷や、江藤、板垣のような征韓論者は、これに憤慨して下野します。ところが、明治8年には、その大久保が江華島事件を起こして朝鮮に武力介入します。

そして、日朝修好条約を締結して朝鮮に不平等条約を押しつけます。

これは西郷には許し難い事でした、大アジア主義を掲げ、清や朝鮮との提携を考えた自分達の意見を潰しておきながら、日本が西洋にやられて、煮え湯を飲まされた砲艦外交を朝鮮に対して行った大久保に対しての西郷の不信と怒りは拡大します。

西南の役での激突、そして西郷からの手紙

明治10年、西郷と大久保は武力で激突する事になります。

当初こそ優勢だった西郷軍ですが、物量に勝る新政府軍に押し戻され遂に鹿児島にまで退却し、城山で西郷は自刃し人生の幕を降ろします。冷酷無情な大久保、しかし、それは一面的な見方に過ぎません。

西南戦争で、西郷が戦死した事を手紙で知らされた大久保は、家の中を落ち着きなく歩き回り何度も鴨居に頭をぶつけています。彼の目には、その時、涙が溢れていたそうです。西洋に倣った帝国主義か、高邁な理想であるアジアの連携か?

現実を取った大久保と理想に殉じた西郷、哀しい程に自分の信念に愚直だった両名は、ついに歩み寄れなかったのです。

紀尾井坂の変、西郷の手紙を見ていた大久保

1878年5月14日大久保を乗せた馬車は、明治天皇への謁見の為に東京都麹町の紀尾井坂に差しかかっていました。

馬車の中で大久保は西郷からの手紙を読んでいたと言います。

そこに、何が書かれていたかは分かりませんが、その手紙が大久保が生前に読んだ最期の手紙になりました。

直後に、馬車は石川県の士族、島田一郎等6名の士族に襲撃され、大久保は暗殺されてしまうのです。

その時、大久保の胸中には何が去来していたのでしょうか・・・

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