西郷隆盛が西南戦争に向かった理由とは?
王政復古や戊辰戦争に尽力し、明治新政府でも政府の重鎮として活躍した西郷隆盛が、私学校の生徒を導き西南戦争を起こしてついには朝敵として自害に追い込まれてしまった理由は何だったのでしょうか?
その真相に迫っていきます。
征韓論以後の西郷の様子
西郷隆盛は征韓論に敗れ、職を辞し郷里鹿児島に帰ってきました。
その際、西郷を慕っていた陸軍少将の桐野利秋や旧薩摩藩出身の近衛兵や士官らが西郷とともに離職し、西郷に付き従って鹿児島に帰ってきました。
そんな士族たちを統率するため、そして県内の若者を教育するために外国人講師をも取り入れた私学校を創設しました。これは優秀な人材をつくり、政府の改革に役立つようにとの考えからだったのです。
明治政府の政策
一方で明治政府は廃刀令・金禄公債証書発行条例を発布しました。
これによって旧武士にとっては最後の特権を奪われることとなりました。
そして、士族はこの精神的・経済的ダメージにより、各地で「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」という不平士族による反乱を起こしました。さらに政府のトップともいえる公卿の岩倉具視が襲われたり台湾征討が決定したりと、国内外において重大な事件が頻発してました。
西郷の暗殺計画
しかし、西郷としてはそんな反政府運動に呼応することなく過ごしていました。自分が立ち上がる時は政府改革の見込みが立った時で、今はまだその状況ではないと思っていたのです。
ですが、そんな西郷の思いとは裏腹に、政府は鹿児島の動きを注視していました。明治維新最大の勢力となった薩摩藩の動きは政府にとって一番気になるところだったのです。
政府は鹿児島出身の中原尚雄ら23人を鹿児島に送りこみました。これには鹿児島の情勢調査という名目でしたが、あわよくば西郷の暗殺を遂行するために派遣されていたのです。
学生が反乱のキッカケ!?
その上政府高官の大久保利通は旧薩摩藩士族の力を削ぐために、鹿児島にある武器・弾薬を大阪に移送しようとしました。大量の人物の帰還を不審に思い、武器・弾薬の移送に不満をもった私学校の生徒たちは反乱を起こす決意をします。
私学校の生徒たちは大久保が大阪に移送しようと思っていた武器などがあった陸軍の火薬庫に奇襲をかけ、さらには鹿児島市内の火薬庫を襲うという暴挙に出てしまいました。
この報を聞いた西郷は「しまった!」と一言嘆きましたが、生徒たちを捕えて政府に引き渡すという非情なことはできず、ついにはこれも天命だと諦めて生徒をまとめて政府に打って出る決意をしたのです。
政府改革のための戦争
西郷隆盛は政府を転覆するためではなく、征韓論に端を発する政府の腹黒い策謀に嫌気がさし、政府を改革するために私学校を創設したのです。
ですので、この戦争も政府を脅かすという意図はなく、ただ国政のことを思い不平士族をも納得させられるような政府の改革のために西郷は戦争へと踏み出したのです。