大谷吉継の病気はいつから発症していた? 不治の病を抱えた彼を突き動かした想いとは
天下分け目の関ヶ原の戦い。戦国時代の終盤を華々しく飾るこの戦いに、友情の為に駆けつけたある武将の姿がありました。
浅葱色の頭巾で顔をすっぽりと隠し、練絹の上に群れ飛ぶ蝶を漆黒で描いた直垂姿で輿の上より軍を指揮するその名は大谷吉継。
不治の病気に犯された身で戦場に馳せ参じた彼を突き動かした理由はなんだったのでしょう。
半生に渡って彼を苦しめ続けた病気、そしてそれを巡るエピソードを紹介していきます。
前半生は順風満帆だった
大谷吉継(刑部少輔の官職にあったことから大谷刑部とも)の出自ははっきりとはしていません。
永禄元年(1558年)に近江国(滋賀県)で生まれたというのが通説ですが、他説もあり、父親の名も諸説あります。
天正始め頃に豊臣秀吉の小姓となり、天正5年に秀吉が織田信長より播磨攻略を命じられた時に秀吉御馬廻り衆の一人として名前が見られます。この時は大谷平馬と名乗っていたようです。
本能寺の変の後、明智光秀を討った秀吉と織田家筆頭家老であった柴田勝家の対立が決定的となり、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こりました。この時吉継は長浜城城主:柴田勝豊を寝返らせ、石田三成らと共に三振の太刀と賞賛される大手柄を立てています。
ここから大谷吉継の出世も目覚しく、天正17年(1589年)に越前国敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となりました。
しかし、順風満帆に見える彼の人生に大きな影を落とす物がありました。
彼がその半生を苦しめられる事になる重い皮膚病です。
ハンセン氏病との戦い
大谷吉継はハンセン氏病にかかっていたと言われています。
当時業病と呼ばれていたその病がいつから彼を蝕んでいたのかは定かではありませんが、天正13年(1585年)正月に大阪で千人斬りと呼ばれる辻斬り騒動が起こります。
この騒動に関して、大谷吉継が皮膚病を癒すために血を求めているのだと言う噂がまことしやかに囁かれた事から、この時には既に発症していたのだろうとは予想できます。
また、彼の残した書状には「白頭」の号がよく見られます。
これは後に言われるように病気で崩れた顔を白い頭巾で隠していたからと見られます。
その号を使い始めた時期から見ると、実は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの時には既に病に犯されていた事になります。
いずれにせよ、年齢としては24歳~27歳、まだまだこれからという年ですし、賤ヶ岳の戦いと言えば彼が歴史の表舞台に漸く躍り出た頃です。
しかし、その後も彼は秀吉の配下として数々の戦いに参加し、一時は豊臣政権の中枢からは外れるものの、慶長3年(1598年)豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには参加しています。
翌年には女能を見物するなど病状は好転していたようです。この頃には政権にも復帰しており、徳川家康とも懇意にしていたと言われています。
目も見えず、体も動かない
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、吉継は東軍有利とは知りつつも一族を上げて西軍につきました。
この事は家康をたいへん狼狽させたそうです。実はその時には病は大分進行していたらしく、馬に乗ることも出来ない程皮膚が崩れており、もうすでに目も見えていませんでした。
それでも輿の上から軍を指揮する吉継の下、大谷隊はよく奮戦しました。
しかし、有名な小早川秀秋の裏切りに合い四方を敵に囲まれ壊滅、吉継も自害(享年42歳)します。発症の年を考えると彼は人生の半分を病と共に戦ってきた事になります。
何故、大谷吉継は病気をおしてまで関ヶ原の戦いに駆けつけたのか。それは主人である秀吉、そして友である石田三成との深い絆があったと言われています。
千人斬りの事件の時、秀吉は吉継が犯人であると言う噂を一切信じず、事件後も吉継を重用しました。
また、石田三成にも茶会の席で吉継の膿の零れおちた茶を飲み干してみせたと言う逸話があります。
二人への思いこそが苦しみも痛みも超えさせたのでしょう。もしかしたら彼は自分の命の限界を知っていたのかもしれません。そしてその前に友の為に戦える事に喜びを感じていたのではないでしょうか。
まとめ
大谷吉継が患っていたのは当時業病、天刑と呼ばれた病気でした。治療方法もなく、医学の知識のない人々の差別も現代の比ではなかったでしょう。
それでも部下として、友として変わらぬ思いやりを持ってくれた二人こそ吉継が命をかけてでも守りたい物でした。
秀吉は農民出身であり、三成も土豪の息子といった出自です。境遇は違っても世間の人々が自分たちを差別する言葉の愚かさやそれを受ける辛さを誰よりも知っていたのではないでしょうか。
裏切りや陰謀の渦巻いた時代でも確かに信じ合える心の絆はある、吉継の生涯はそれを教えてくれます。