大谷吉継が関ヶ原の戦いで西軍についた理由は?
大谷吉継は、豊臣秀吉の家臣でした。その吉継が、関ヶ原の戦いで西軍についたことは不自然ではないのかもしれません。
しかし、吉継は秀吉の死後徳川家康と親交を深めています。
では、なぜ西軍についたのでしょうか?
大谷吉継が西軍についた理由
関ヶ原の戦いの前、徳川家康が上杉景勝に謀反の疑いがあると上杉討伐軍を起こした時、大谷吉継は懇意にしていた家康の討伐軍に参加しようと領国・敦賀を立ちます。その途中で、親友の石田三成の居城・佐和山城へ立ち寄ることにしました。そこには、三成と家康を仲直りさせようという思いがありました。
しかし、佐和山城で三成から「家康を一緒に討とう」と持ちかけられることになってしまうのです。
その誘いを再三諌め、「勝ち目なし」と説得するも、三成の固い決心にとうとう折れ、吉継は敗戦を覚悟の上で西軍につくことにするのです。
そこには、三成との友情秘話があったためと言われています。
豊臣秀吉の存命中、茶会の席でお茶を回し飲みする際、病(ハンセン病との説が多い)を患っていた吉継が口をつけた茶碗には誰ひとり口をつけようとしませんでした。
ところが、三成は吉継が落とした膿ごとお茶を飲み干します。このことにいたく感激した吉継は、三成のためなら命を投げ出しても惜しくないと思う程、友情を深めたとされています。
大谷吉継の病については合わせてこちらをお読みください。
関ヶ原での奮戦
西軍についた吉継は、一旦帰還して越前・加賀の大名の調略を行い、西軍に取り込むことに成功しています。
関ヶ原の戦い当日は、5,700人で関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に布陣します。吉継の体は、病の為に体調が悪く、既に目も不自由になっていたため、輿に乗って指揮をとっていました。
そして、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両軍を相手に奮戦していたとされています。
小早川秀秋の裏切り
吉継は関ヶ原で戦いになる前から、小早川秀秋が裏切ることを予想していました。そのため布陣も、石田三成の陣を小早川秀秋の陣から守るようになっていたとされています。
案の定小早川が裏切り、1万5000人の兵が押し寄せた時、直属の兵600人で迎撃し、2度、3度と山へ追い返しています。
しかし、小早川の裏切りに備えて配置しておいた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4,200人も東軍に寝返ってしまったため、大谷隊は前後・側面から攻撃を受けることになり、とうとう壊滅してしまうのです。
多くの西軍の将が戦場を離脱したにも関わらず、吉継は自害を選びます。吉継が自害した後、その首は側近の湯浅五助が関ヶ原に埋め、東軍に見つかることはなかったとされています。
まとめ
大谷吉継は、それまでそこそこの働きはしていたものの、親友の石田三成のように、歴史上スポットライトを浴びるような人生ではなかったと思われます。それは病の治療のために、表舞台から退かざるを得なかったからかもしれません。
しかし、この関ヶ原の戦いにおいて、敗戦を覚悟の上で親友・石田三成の西軍につき、散っていったことで名を上げることになりました。
戦国の世で、利害なく友情のために死んでいった大谷吉継は、まさに日本人好みの武将と言えますね。