大谷吉継が大谷刑部と呼ばれるけれど、刑部ってどういう意味?
小早川秀秋が「金吾(きんご)中納言」と呼ばれることがあるように、大谷吉継はよく「大谷刑部(ぎょうぶ)」と呼ばれたりしているシーンをドラマなどでも見かけますよね。
小早川秀秋と照らし合わせると、おそらく刑部とは官職なのかなと思われますが、刑部とはそもそもいったいどういう意味があるのでしょうか。
吉継が「大谷刑部」と呼ばれるようになった所以と合わせて、見ていきましょう!
大谷刑部と呼ばれるが、刑部の意味とは
1585年、豊臣秀吉は関白の座に就きました。
この時に、吉継も従五位下刑部少輔(しょうゆう)に任ぜられています。これ以後、吉継は「大谷刑部」と呼ばれるようになりました。この時、源性を名乗ったという説もあります。
また、同時期に家紋を変更し、違い鷹の羽から対い蝶にしました。
刑部少輔とは、刑部省に属する官職で、司法全般をつかさどり、重大事件の裁判や監獄の管理、刑罰の執行などを担当する部署でした。
近代日本の司法省の前身的なものとなります。
刑部省の長官が刑部卿、次席が刑部大輔、そして刑部少輔です。
吉継の地位は、刑部省のナンバー3ということになりますね。
他に「名前+官職」で呼ばれている人物
中納言が6人もいた当時ですが、吉継と同じ官位で○○刑部という人物が何人もいたという記録はありません。
しかし、吉継と同じように、○○少輔という官職に就いていた人物はいるのです。
石田三成
三成は治部(じぶ)少輔という官職に就いていました。
治部省とは外事・戸籍・儀礼を管轄していましたが、後には僧尼・仏事・雅楽を管轄したようです。
三成がよく「治部少」と呼ばれるのは、このためです。
脇坂安治(わきざかやすはる)
関ヶ原の戦いで寝返ったことでも有名な彼は中務(なかつかさ)少輔に就いていましたが、この官職は唐名で「中書」と呼ばれたため、彼は「中書(ちゅうじょう)様」という別名で呼ばれていました。
彼の屋敷があった一帯は、「中書島」と呼ばれるようになり、現在に至っています。
中務省は、朝廷に関する職務を担当していました。
天皇の補佐を行ったため、最も重要な省とみなされていました。
中村一氏(なかむらかずうじ)
豊臣政権において三中老に任ぜられたとされる中村一氏は、式部(しきぶ)少輔を拝命しています。
式部省は文官の人事や大学寮の統括を行い、中務省に次いで重要な省であるとされていました。
しかし、彼に関しては記録が少なく、中村式部と呼ばれたりしていたかどうかは明らかではありません。
当時、律令制に基づいて置かれていたのは、中務・式部・治部・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部・大蔵・宮内(くない)の八省でした。
そのため、彼らの他にも少輔がいたと考えても良いかもしれませんし、○○兵部などの呼び方があったかもしれません。
まとめ
何故、名前+官職なのだろうと考えていましたが、よくよく考えてみると○○課長、○○部長などと現代でも呼ばれていますよね。
そう考えると不思議はない呼称なのかなと思いましたが、金吾中納言や中書様など、なぜ唐名で呼ぶのでしょう。そこがまだ気になるところですね。