お椀? 戦国一の知将 黒田官兵衛の兜に込められた意味とは
日本の歴史に燦然と輝く天下人、豊臣秀吉。
その秀吉を天下人まで押し上げた軍師の一人に、黒田官兵衛がいます。
今回は、当の秀吉も恐れたという戦国一の智将、黒田官兵衛の一風変わった兜についてご紹介します。
潔いシンプルな形 『如水の赤合子』
黒田官兵衛は、天文十五年(1549年)に姫路城代黒田職隆の嫡男として播磨の国姫路に生まれました。
豊臣秀吉に仕え、中国地方の平定に尽力するほか、賤ヶ岳の戦いや四国攻め・九州攻めでも武功を上げ、秀吉の天下取りに大いに貢献した武将です。
文禄二年(1593年)に剃髪し如水と号し始めました。
その後、家督を息子黒田長政に譲ってからも、秀吉のもと、小田原攻めや朝鮮出兵にて活躍し、また関ヶ原の戦では東軍として九州の地で気炎を上げました。
その黒田如水の兜として有名なのが、『銀白檀塗合子形兜』です。
内鉢は六枚張の椎形、外鉢はお椀型の薄い鉄板で構成されており、銀箔を施した上から透漆をかけた「白檀塗」が特徴的な艶のある赤褐色を作り出したとされています。
「合子(ごうす)」とは「蓋つきのお椀」という意味で、この兜は黒田官兵衛が結婚するおり、舅となった櫛橋伊定から贈られたものと言われています。
「合」という字には、つれそう・あつまる・むすぶなどの意味合いがあるので、蓋つきのお椀で夫婦一対、という意味を持たせたのかもしれません。
また、お椀は戦場においては「敵を飲み干す」という意味合いも含み、知略に富んだ軍師として、また勇猛果敢な武将として黒田如水の戦いぶりを物語るアイテムとなっています。
本物は「もりおか歴史文化館所蔵」のワケ
黒田官兵衛の嫡男であり初代藩主黒田長政の時代から、明治期に廃藩置県が行われるまでの長きにわたり、黒田家の領地は筑前福岡でした。
しかし、長政の父である黒田官兵衛、その所用と言われ現存する兜が保存されている場所が、現在の盛岡市にある「もりおか歴史文化館」であるのは、どうしてでしょうか。
その理由は、黒田家のお家騒動にありました。
慶長九年(1604年)黒田官兵衛は死の間際、黒田家家老の栗山備後にこの兜を与えました。「筑前守(長政)がこと、くれぐれも頼む」と。
やがて年月は過ぎ、黒田長政が亡くなり、栗山備後もまたこの世を去りました。そして、その後をそれぞれ継いだのが黒田忠之であり、家老黒田大膳です。
ある時、黒田忠之は家柄家老の栗山大膳に、備後の所有している官兵衛の甲冑の返却を命じました。「祖父や父の法事のさい、霊前に飾って礼を尽くしたいので、黒田家の家宝である甲冑を返してほしい」という理由です。
最もだと思った大膳は、甲冑を返却しますが、忠之はそれを重用していた仕置家老の倉八十太夫に与えてしまいました。
それを知った栗山大膳は腹を立て、倉八十太夫の屋敷を襲い甲冑を取り返します。
その頃、黒田家には、家に仕える「家柄家老」だけではなく、藩主個人に仕える「仕置家老」が設置されていました。
家柄家老には先代の頃からの重臣が代々付くので、藩主にとっては扱いずらく、忠之は好きなように使いやすい仕置家老を設けて、政策にあたったのです。
それは軍船を作ったり、兵を増強したりと、幕令に背くような行為が見られるものでした。それを諫めたのが家柄家老の大膳でしたが、忠之は忠告を退け反対に殺害しようとさえする始末。
「このままでは、幕府に黒田家の失政が知れてしまう、問題になる前に先に訴え出て、お家取り潰しを未然に防ごう」と思った大膳は、幕府に「主君忠之は幕府に謀反の志あり」と訴えでました。
幕府からの尋問の結果、忠之は謀反の危険なしと許されています。そして、すべての責任を取る形で、栗山大膳は南部藩のお預かりになったのです。
南部藩とは現在の岩手県盛岡市。栗山大膳が南部藩に流されたおり、一緒に官兵衛の兜も移されました。
やがて、南部家に献上されて現在に至ります。
まとめ
一方、黒田家の地元福岡には、黒田官兵衛(如水/孝高)所用と伝わる「革包黒糸素懸威五枚胴具足」があります。
この兜とされている「朱漆塗合子形兜」は三代目藩主光之が作らせたものです。
黒田官兵衛の所用のオリジナルの合子形兜は、以上のような経緯で岩手県の「もりおか歴史文化館」に所蔵されているのです。