天武天皇の謎 その正体は朝鮮から渡ってきた新羅王!?
天武天皇は壬申の乱で勝利をつかみ、妻の持統天皇とともに律令国家の礎を築いた人物です。
彼は通説では天智天皇の弟だとされていますが、本当は天智天皇とは兄弟ではないという説や、朝鮮半島から来た人物だという説など諸説ある人物です。
そんな天武天皇の謎に迫りたいと思います。
通説での天武天皇
天武天皇は舒明天皇と皇極天皇の子として生まれ、同母兄に天智天皇がおり、持統天皇を妻としています。
生年月日は不詳とされ、死没年月日は686年10月1日とされています。
生年月日が不詳というのは『日本書紀』においてであり、同書では天皇の生年月日を記載していない場合が多く、641年の時点での天智天皇の年齢を書いて生年を計算可能にしていることのほうが珍しいです。
天皇の生年月日を詳しく記載するようになったのは、中世以降で、その時代に編纂された年代記などによると、天武天皇のだいたいの生年は631年頃だとされています。(後述で詳細を記載します)
天武天皇は天智天皇の兄だった!?
先述した通り、天皇の生年月日を詳しく記載するようになったのは、中世以降の年代記や系図類などです。
天武天皇が没してから数百年を経て、鎌倉時代に編纂された『一代要記』『神皇正統記』『如是院年代記』『神皇正統録』『本朝皇胤紹運録』などによると、天武天皇の生年は推古30年(622年)とされており、これは『日本書紀』書かれる天智天皇の生年である推古34年(626年)よりも先となります。
つまりこれによると、天武天皇が天智天皇の兄なのではないかということができます。
しかし、『古事記』も『日本書紀』も天智が兄で、天武が弟というように書いてあります。この矛盾によって、本当はこの二人はそもそも兄弟ではないのではないかという説が出てきます。
天武天皇は新羅の王?
歴史作家の佐々克明は、『日本書紀』が天智と天武を兄弟としたのは事実を隠そうとしたからだと唱えます。
その事実とは、天武天皇=新羅の皇族・金多遂だったということです。
新羅の皇族だったので、親百済政権である天智・弘文政権を壬申の乱で潰してしまったと言います。
また、それによって、天武系の天皇は、天皇の菩提寺に祀られていないことも説明できると言います。
それが本当なら、日本の天皇となる者が日本人ではない(さらに言うと、白村江の戦いで日本・百済軍を負かせた新羅の皇族)という事実は、隠し通すべき事ですね。
天武天皇は漢皇子?
これに対して、小林恵子氏は天武天皇=漢皇子(あやのみこ)ではないかと言うのです。
漢皇子は、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に結婚していた(つまり舒明とは再婚)高向王との間にできた皇子で、天智・天武の異父兄とされています。
しかし、母は後の天皇、父は用明天皇の皇子という高い身分の皇子であるにも関わらず、この漢皇子の詳細はわかっていません。
また、天武天皇(大海人皇子)も664年の立太子の時にもその「大海人」という固有名詞は登場しません。つまりこの時点では「大海人」という人物は存在しなったのではないか、と考えられます。
そして、上記の『一代要記』などに基づくと、天智・天武の享年はそれぞれ46歳、65歳となり、天智が亡くなった671年の時点で天武は50歳で、天智よりも4歳も年上となります。
これらのことから小林氏は天武天皇=漢皇子なのではないかというのです。
真実はいかに!?
上記のような天武が天智よりも年上という説は、天武の生年を中世の書物から、天智の生年を『日本書紀』から取り出して比較した時にだけ起こります。
『一代要記』にはちゃんと二人の生年が書かれており、それによると通説通り天智が年上であるということができます。
このことから、多くの歴史学者は、天智・天武が同じ父母から生まれた兄弟だと明記する『日本書紀』を覆すことに否定的です。
また、もし天武が新羅系の皇子なら、なぜ『日本書紀」にはそのことが書かれていないのでしょうか。「日本の皇統の正当性を示すため」かもしれませんが、もし新羅の皇子とするならばなぜ朝鮮の文献にはその記述がみられないのでしょうか。そして、日本書紀は天武天皇の子や功臣らが編纂したものなのに、天武天皇の出自を誤魔化す必要があるでしょうか。
古代史においては決定的な根拠となる資料が少なく、それによって多くの説が唱えられますが、以上のようなことから、通説である「天武は天智の同母兄である」という説が有力なのではない可と思われます。