「三日天下」 秀吉に討ち取られた明智光秀の首と遺体の行方は?
本能寺の変で主君の織田信長を自害させた明智光秀。
しかし、信長の訃報を聞いて遠征先から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れました。
そんな彼の首や遺体はどうなったのでしょうか。
山崎の合戦
本能寺の変の11日後の1582年6月13日、明智光秀は新政権を築く暇もなく、同じく信長の家臣であった羽柴秀吉を迎え撃つことになりました。
場所は現在の京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町山崎付近です。戦いの決着は短時間で決まりました。
淀川沿いで羽柴方の池田恒興らの軍勢に迫られた明智軍は、パニックを起こし総崩れになり、明智光秀は勝龍寺城に逃げ込みました。
しかし、小さな平城であるこの城では、到底敵からの攻撃をかわすことができないと思い、光秀は夜が明けるのを待って、自身の妻子がいる近江坂本城に落ち延びようとしました。
光秀の最期
しかし、坂本城に向かう道中、山科の小栗栖(おぐるす)に差し掛かった時、光秀は落ち武者狩りの百姓がしかけた竹槍に刺されて重傷を負います。
これが最期と悟った光秀は、家臣の溝尾茂朝の介錯によって自害して果てました。(竹槍によって絶命したという説もあります。)
光秀の首の行方
その後、光秀の首は近くの竹やぶの溝に隠されましたが、発見した百姓によって織田信孝(織田信長の三男)に届けられました。
そして、捕縛された後に六条河原で斬首された家臣・斎藤利三の屍(または首)と共に本能寺でさらされ、その後京都の粟田口の路地にさらされました。
しかし、光秀のものとして首実検に出された首は三つあり、さらに夏の暑さで腐敗が進み、顔面の皮がはがされたものでした。
つまり、本当に光秀の首だったのかは確証がないのです。
しかし、秀吉は自分の武勲をいち早く世に伝える必要があったため、光秀の首だと断定し、見せしめにしたのです。
光秀の首塚
光秀の首塚は首実検に供された首の数と同じく三つあります。
- 梟首された京都の粟田口に築かれた
- 光秀を介錯した溝尾茂朝によって持ち帰られ、亀岡市宮前町の谷性寺に埋葬された(谷性寺は別称『光秀寺』と呼ばれる)
- 娘・細川ガラシャの元に届けられ、細川家の旧領内である京都府宮津市喜多の盛林寺に埋葬された(光秀の位牌も祀られている)
光秀の胴塚
明智光秀が絶命したとされる竹やぶを「明智藪」といいます。
その明智藪から坂本城の方向に約2キロ北上した京都市山科区勧修寺御所内町に光秀の胴塚があります。
現在の地形で言うと、地下鉄小野駅と醍醐駅の真ん中で、山科川の近くにあります。
これは『明智軍記』で竹槍で討たれた光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、後世の人が明智藪の近くに建てた供養塔と言われています。
光秀の墓
光秀の墓は、滋賀県大津市坂本にある西教寺にあります。
この寺は信長の焼き討ちにあった後、復興の援助が光秀からあり、光秀とは縁の深い寺です。
墓の前にある案内板には「本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期を遂げた時、一族とともに当寺に葬られたと言われている」と書かれています。
ここに本当に光秀が埋葬されているかどうかは断定はしていませんが、早くになくなった正室の熙子(ひろこ)はここに安置されています。