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坂本龍馬は明智光秀の子孫!?

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薩長同盟締結に奔走し、最期は何者かに暗殺された土佐藩出身の維新志士・坂本龍馬。彼は生前、自ら「自分は明智光秀の末裔」と語っていたというのです。

果たしてその真相はどうなのでしょうか。

龍馬と光秀の共通点

1.坂本

そもそも龍馬の苗字である「坂本」自体、光秀と縁の深いもの。光秀の居城は近江の「坂本城」です。

2.桔梗紋

明智家の家紋が桔梗紋であることはよく知られていますが、坂本家の家紋も桔梗を升で囲んだもので、「組み合わせ角に桔梗紋」と呼ばれます。

そもそも桔梗紋というのは美濃(現在の岐阜県)の土岐氏が使用していたもので、美濃出身の明智家も桔梗紋を用いていました。こうしたことから、明智光秀の子孫が生き延びて、高知の才谷村で酒屋を始め、そこで酒にちなんで、家紋を升に入れた形に変えたという説があるそうです。

3.亀山

龍馬が海援隊の前身として長崎に旗揚げした海運貿易会社を「亀山社中」といいます。じつはこの「亀山」も光秀と縁の深い名前で、光秀が丹波攻略の拠点として築城したのが「亀山城」なのです。

しかしながらこれに関しては龍馬が光秀を意識して「亀山」を名乗ったというよりも、亀山社中を結成した地域が当時「亀山」(現在は長崎市伊良林地区)と呼ばれていたことに由来すると考えるほうが普通でしょうが、興味深い共通点です。

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土佐に落ち延びたとする説

天正10年(1582)光秀は主・織田信長に反旗を翻し、本能寺の変を起こしました。しかしその後中国大返しを成功させた豊臣秀吉軍により山崎で敗れ、光秀自身は居城のある坂本に落ち延びる途中、本経寺付近の竹薮で落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺し殺されたと伝えられています。

こうした中で坂本城を守っていた光秀の女婿・明智秀満(左馬之助)の庶子・太郎五郎が坂本城落城の際、壷いっぱいの黄金とともに土佐へ逃れ、長岡郡才谷村に移り住んだといわれているのです。

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土佐と光秀の関係

なぜ太郎五郎は土佐に逃げたのでしょうか。これには土佐と光秀との間にある深い関係があります。

当時土佐を支配していたのは長宗我部元親です。光秀は四国を統一するほど勢いのあった長宗我部元親と信長のパイプ役を担っていました。また、元親とは姻戚関係にもありました。

信長は当初、元親と友好的な関係を築き四国征服を容認していました。しかし急速に勢力を広げる元親を信長が警戒。土佐と阿波の南半分のみの領有を認めると命じると政策を変更したことに、元親が激怒、光秀は信長と元親の間で板挟み状態になりました。本能寺の変を起こした理由の一つにも、信長の四国攻めから元親を守るためだったという説が唱えられています。

こうしたことを踏まえれば、太郎五郎が逃亡先として土佐を選んだことは当然といえるでしょう。

坂本家は「坂本」姓を名乗る前は「大浜」姓を名乗っており、この頃の紋は「丸に田の字」なので明智氏との関係はないとする説があります。また、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないことから明智後裔説が疑問視されているそうです。

しかし、山崎の戦いの後急速に豊臣秀吉が勢力を拡大し、天下統一を成し遂げたことを考えれば、堂々と「桔梗紋」を掲げて「坂本」を名乗ることも、領地を与えられて武士として生活することもはばかられてのではないかと想像されるので、私は否定する理由としては弱いのではないかと思うのですがどうでしょうか。

坂本龍馬記念館の見解

高知県の坂本龍馬記念館のHP内の「龍馬Q&A」のコーナーでは次のような見解が示されています。

坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。

いろんな末裔説がありますが、300年という時を超えて同じように朝廷を軽視する勢力と対立し、最期には反対派によって暗殺された2人が末裔であれば、歴史とは不思議なものですね。

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