明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で壮絶な死を遂げた後、息子の織田信忠も二条城で乱戦の末に命を落としました。
ただ、信忠は信長の訃報を聞いた後に二条城へ入り、籠城しています。
なぜ信忠は逃げずに籠城したのでしょうか。
その理由を検証していきたいと思います。
本能寺の変の時、信忠が二条城へ入った理由
太田牛一(おおたぎゅういち)によって記された「信長公記(しんちょうこうき)」によると、滞在先の妙覚寺(みょうかくじ)で本能寺が襲撃されたとの報を耳にした信忠は、ただちにそこへ向かい信長に合流しようとしました。
しかし、この時、本能寺の向かいに居を構えていた京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安・警備担当)の村井貞勝(むらいさだかつ)が駆け込んできます。状況を目の当たりにしていた彼は、すでに本能寺が落ちたこと、二条城は堅固であるからそこに籠城した方がいいという考えを伝えました。
一方、逃げたほうがいいと言う部下もいました。しかし、信忠は、「明智はきっと追っ手を京都市内に巡らせているだろうし、逃げて雑兵に討たれるのは不名誉なことだ。それならここで潔く腹を切った方がいい」と答え、結果的に村井貞勝の言を容れたのです。
ところで、当時の二条城というのは、現在私たちが京都で目にすることのできる城とは違います。
現在のものは徳川家康が建てたものですが、本能寺の変が起きた時の二条城は、信長が京都の本邸として建てたものを皇太子誠仁親王(さねひとしんのう)に献上したものでした。この時、「二条新御所」と呼ばれ、場所も異なったのです。
村井貞勝の言もありましたが、信忠が二条城を選んだのには彼なりの目論見もあったのではないかと思います。
というのも、二条城は信長によって建てられて誠仁親王に献上したものであり、織田方の兵が逗留していても不思議ではありません。信忠はそれが戦力になると踏んだのではないかと考えられます。結局、そこに形勢逆転となるほどの戦力はいなかったようですが…。
明智勢と信忠勢の戦力はどれくらいだったのか
光秀は信長の命で秀吉の中国攻めに加勢することとなり、領地の丹波亀山城で兵を整えたため、その戦力は1万3000ほどでした。
一方、信忠はというと、武田氏相手の甲州征伐から戻り、父:信長を追って京へ入りました。2人とも秀吉の中国攻めの援軍に行くつもりだったとも言われていますが、この時、手勢はわずかでした。信忠の率いていた数は数百に過ぎなかったとされています。
防備などの点を考えると、光秀が1万3000の兵をすべて本能寺と二条城に投入したとは考えにくいですが、それでも信忠の手勢と光秀の兵力の差は大きかったと考えられます。
二条城に籠城して勝ち目はあったのか
村井貞勝の言葉を信じたとて、いかに堅固であるとは言っても、籠城したことが信忠にとって最善の策だったのでしょうか。
京都周辺は信長の配下の武将たちの勢力下でした。そのため、もう少し二条城で持ちこたえることができたなら援軍が望めたのかもしれません。ただ、伝わっているとおり明智軍1万3000に対して数百の手勢では、1日持ちこたえることも無理ではなかったでしょうか。実際、明智勢は隣の屋敷の屋根の上に登り、そこから鉄砲射撃を浴びせたのです。
ならば、いったん逃亡した方が良かったのではないかということになりますね。
実際、信忠と行動を共にしていた叔父である織田長益(おだながます=織田有楽斎・おだうらくさい)、水野忠重(みずのただしげ)、山内康豊(やまうちやすとよ)、前田玄以(まえだげんい)は脱出に成功しています。前田玄以は信忠の息子三法師(さんぼうし)を連れての脱出でした。
彼らが逃げられたのなら、信忠にも可能性はあったはずです。少しでも京都から離れられれば、それこそ他の織田方の武将たちがいて、態勢を立て直すことも可能だったのかもしれません。
しかし、ここで信忠のあの言葉がよみがえります。
二条城へ籠るよりも逃げるべきとした部下に、彼は「雑兵にやられてはあまりに不名誉で無念。それならばここで切腹した方が良い」と言ったのでした。
もしかすると、信忠は籠城を選べば勝ち目などないことはわかっていたのかもしれません。ただ、それよりも織田家の総領としての矜持が、逃亡よりも死を選ばせてしまったのではないかと考えられます。逃げることは生き恥を晒すこと、父:信長が討ちとられた今となっては織田家の恥を天下に知らせるわけにはいかないという、当主としての誇りが彼の胸にあったのではないかと思います。
まとめ
二条城に籠城したことから、信忠を愚将、凡将と言う説もあります。
しかし、信長から織田の跡取りに選ばれた彼が愚かだったとは思えません。
偉大すぎる父を持ったがゆえに、逃げることで織田の名前を汚すことを由とせず、二条城に散ってしまったのではないかと思うのです。