明智光秀の性格 本能寺の変を起こすような大胆な面があったのか?
明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、日本史の中でもミステリー(謎)の一つと言われます。諸説語られるほど、その真相は未だ解明されていません。
「勝者の論理で、真相は藪の中」といったところでしょうが、そもそも本能寺の変を起こした明智光秀とは、どのような性格の人だったのでしょうか?
明智光秀の性格
明智光秀は、歌を詠み茶の湯を嗜む文化人でもあり、また戦上手でありながら内政にも長けたという完璧な人物のようでありましたが、その実、繊細な神経の持ち主だったともあります。
それで信長から数々の仕打ちを受け、侮辱され続けたことで、堪忍袋の緒が切れて本能寺の変に至ったと言われています。
しかし、宣教師フロイスが見る光秀は、また違っていた用でこのように記録がされています。
- その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた
- 己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった
また、主君である信長が喜ぶことを熱心に研究し、機嫌を損ねないように努力していたとされます。それゆえ、信長の配下となってから瞬く間に出世し、信長の重臣となり得た訳です。
出世のためには腹黒い部分が見え隠れする光秀ですが、家臣・領民には思いやりにあふれた面を見せています。
例えば、戦で負傷した家臣に見舞いの書状を送っていたことが、多数見つかった書状からわかっています。これは、その当時の武将には見られないことでした。
また、治めた土地では善政を行ったため、現在でもその土地では慕われているそうです。
信長とは性格的に合わなかった?
結論から言うと、そうではなかったと考えられます。
理由としては、光秀は必死で信長に気に入られようと努力をしていました。
信長の比叡山の焼き討ちは有名な話ですが、通説では光秀はこのとき信長に反対し諌めたとされています。
しかし、雄琴(現在の滋賀県大津市)の土豪・和田秀純宛の書状には、焼き討ちの実質の中心人物は光秀だったということが読み取れます。
これは信長の命令を忠実に従っていたことが分かるのです。
それに信長と合わず疎まれていたとしたら、異例の出世で重臣にまで登り詰めることができたでしょうか?

By: wtnb75t
本能寺の変直前から関係が悪化
しかし、信長は本能寺の変の前あたりから、急に光秀を疎んじはじめ、数々の仕打ちや侮辱するような言動をとったとされています。
このあたりの内容は、光秀が本能寺の変の後敗者となり、時の権力者によって都合のいいように創作されたものではないかと思われます。
実際、本能寺の変を取り巻く史実には、キナ臭い話がウヨウヨあります。それこそが、明智光秀が本能寺の変を起こした理由を、ミステリー(謎)にしている要因ではないでしょうか?