藤堂高虎 戦国一の世渡り上手のお墓はどこに?
「戦国の世渡り上手」と言われる藤堂高虎ですが、その一生はどのようなものだったのでしょうか?
また、その最後やお墓について見ていきましょう。
藤堂高虎の略歴
1556年、近江国犬上郡藤堂村の土豪の藤堂虎高の次男として生まれました。
最初は近江国の浅井氏に仕え、浅井氏が織田信長に滅ぼされると、浅井氏の旧臣の阿閉貞征や磯野員昌の家臣として仕え、その後近江国を離れて信長の甥:織田信澄に仕えるも、長続きせず転々と主君を変えていました。
1576年に羽柴秀吉の弟:秀長に300石で召し抱えられてから、その頭角を現すようになります。
秀長の下で数々の武功を上げ、また築城の名人であったため数々の築城に関わり、こちらでも名をあげました。
秀長亡き後は、甥で養子の豊臣秀保に仕えますが、秀保が早世すると出家し、高野山へこもりました。
しかし、高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉の説得によって還俗し、7万石の大名となります。
ところが秀吉の生前より、それまで親交のあった徳川家康に接近していき、関ヶ原の戦い以前から徳川家康側についていました。
関ヶ原の戦い・大坂の陣では徳川方として戦い、家康からの信頼は絶大だったと言われています。そして、徳川3代の将軍(家康・秀忠・家光)に仕え、外様大名でありながら譜代大名に準ずる扱いを受けるほどの信任を得るようになったのです。
体は数々の戦を潜り抜けてきて、ボロボロだった
数々の武功をあげ、戦場で亡くなる事はなかった高虎ですが、寄る年波には勝てず、1630年江戸の藤堂屋敷にて病死します。(肺炎とも言われています。)享年75。
ご遺体のお清めのときに、身体を見たものは驚いたそうです。その当時としては大柄な身体に(約190センチメートルはあったと言われています。)隙間のないくらいの弾傷や槍傷があり、右手の薬指と小指はちぎれていて、左手の中指は短くその爪はなく、左足の親指も爪はなかったとされています。

By: Zengame
お墓の場所
高虎のお墓は、東京都台東区の上野恩賜公園内の「寒松院」にあります。ここは、津藩藤堂家の江戸屋敷があったところです。また、公園内には家康の遺言で高虎と天海が造影した上野東照宮もあります。
上野恩賜公園の恩賜上野動物園(東園)にある五重塔の近くに「動物園でなくなった動物たちの慰霊碑」があり、その裏手にひっそりと祀られています。(現在、入ることはできません。)
また、三重県津市にも津藩藤堂家の菩提寺「寒松院」があり、こちらは高虎の息子:高次が建立した昌泉院(のちに寒松院と改められました)に祀りました。
東京の上野も津市の藤堂家の菩提寺も「寒松院」と名づけられていますが、これは天海が「寒風に立ち向かう松の木」になぞられた「寒松院」という号を送っていますが、この院号からとっています。
お墓ではありませんが、津城址には高山神社があり、こちらに高虎は神として祀られており、市民の氏神として現在も信仰を集めています。