1582年に起きた本能寺の変。織田信長に謀反を起こしたのは、家臣の明智光秀でした。
なぜ光秀は謀反を起こしたのか…日本史最大のミステリーと言われ、今なお理由については論議されています。
決定的な理由は不明ですが、その理由とされる説を例を挙げていきます。
本能寺の変
現在主流となっているのは光秀の怨恨説ではないでしょうか。
1582年5月、信長は徳川家康を招き接待しました。その接待役に任命されたのが光秀でしたが、信長は光秀に「魚が腐っている」などと因縁をつけ、接待役を途中解任して羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じます。
その頃信長は武田氏を滅ぼしたので、次は中国地方の毛利氏を討伐しようと秀吉を差し向けていたのです。
秀吉は備中の高松城を包囲中でしたが、兵力が足らず信長に援軍を求めていたのです。接待役から援軍に転ずるように命令されたのは、そういう理由からです。
なお、光秀の他にも細川忠興、池田恒興、筒井順慶、中川清秀、高山重友も出陣を命じられていますので、光秀だけが援軍に向かったわけではありません。
ところで光秀は信長に気にいられていないと思っており、接待役をおろそかにされたことで信長を恨みました。「キンカ頭(禿頭)」と呼ばれるなど辱めを受けたことも幾度となくあり、人質に差し出した母を殺されたこともあります。
光秀は謀反を起こすことを決めかねるように、すぐには援軍に発たず、出陣を命じられてから2週間ほど京都や滋賀に滞在していました。
そして6月1日、光秀は「信長に出陣の武者ぞろえを見せるため、京都に行く」として出立します。ところがそれは建前で「敵は本能寺にあり!」と、13,000の兵を連れて信長に謀反を起こしたのです。
上記のようなエピソードが、一般に知られている本能寺の変の概要ではないでしょうか。光秀が信長に恨みを持っていたとする説ですね。
怨恨説への反論
怨恨説は主流となっていますが、これは後世の物語などで一般化した説です。少しですが、有名なものに解釈を加えてみます。
- 接待役を解任…「魚が腐っている」と因縁をつけられたとされ、『太閤記』にもその記述があるのですが、家康の接待のための食材などは信長自ら吟味していたとの説もあります。ですので、魚が腐っているというのは事実だったのか、疑問です。
- キンカ頭…これは信長なりの親しみの表れではないでしょうか?「光」「秀」の文字を少々入れ替えると「禿」と成り得ます。それだけ寵愛されている家臣とも受け取れるのですが。
- 母を殺された…丹波の八上城に光秀の母が人質として預けられていました。ところがその城に信長が攻め入ったので、怒った家臣が光秀の母を殺してしまうということがありました。ですがこの話は『絵本太閤記』に出てくるものですので、信憑性は低いのです。
他の説
他にも色々と説がありますが、いくつか有名なものを上げます。
- 野望説…光秀は自分にも天下を目指す権利がある、あるいは信長の上に立ちたいという野望があった。
- ノイローゼ説…政武に長けていた光秀ですが、本能寺の変に関しては勢いだけで攻め入った印象があります。事前の計画もなかったのか、計画も行動も穴だらけです。また、大事の前に異常行動があったとされ、おみくじを大吉が出るまで何とも引き続けたという話が有名なのですが、この行動は戦国時代の武将では一般的なようなので、特に異常ではなさそうですね。計画性のなさから「ノイローゼだったのでは」と考えられているのではないでしょうか。
- 黒幕説…かなり浸透している説ではないでしょうか。何人かの黒幕候補がいます。足利義照・朝廷・羽柴秀吉・徳川家康など
この4つが有名ではないでしょうか?それぞれ根拠がありますが、足利義照と朝廷に関しては反論も多々あるようです。
信憑性のある説
秀吉が黒幕である…という説が有力なのではないでしょうか?
秀吉は信長のもとから引き離す機会を作っています。本能寺の変があったと知るのも早く、その後の対応も迅速です。これは、光秀が反乱を起こすことを事前に知っていたからではないでしょうか?
家康は天海という僧侶を側近としており、その天海こそが光秀ではないか(光秀を匿った)という説から生まれたようですが、天海と光秀は別人でしょう。同一人物だとすると、116歳まで生存したことになりますしね。また、信長は家康を暗殺するつもりだったという説もあるので、それを察知した家康が先手を打ったとも考えられます。しかし、家康が黒幕であるという説は少し弱いようです。
謎は謎のまま
いくつかの説を上げましたが、結局はなぜ光秀が謀反を起こしたのかは謎のままです。現在のところ、理由は光秀本人にしか分からないのです。いつか決定的な史料が見つかり、理由も明らかになるかも知れませんが、謎は謎のままでいた方が良いとも思うのです。