武田信玄を支えた弟 武田信繁 川中島で一騎打ちしたのは実は彼だった!?

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甲斐の戦国大名:武田信玄には兄弟が多数いました。中でも、同母弟の武田信繁・武田信廉(のぶかど)は広く名を知られており、信玄公の影武者も務めたと言われています。

戦国時代、武将の周辺には時に、影武者の存在があったと囁かれますが、武田家の場合、影武者はどのような使われ方をしたのでしょうか。

その様子を探ってみたいと思います。

影武者の役割とは

まず、影武者とはいったい何なのかというところから話を始めましょう。

影武者とは、主に合戦の時など、名のある武将の身代わりを務める人のことを言います。

実際の役割はその時々によって様々ですが、例えば、別働隊を率いて陽動作戦を行い、敵の主力を大将のいる本隊から逸らしたりします。

また、複数の影武者が1人の武将の名前を違う場所で同時に名乗り、敵軍を混乱させたりもします。

そして、味方の形勢が不利な時に真の大将を安全に逃がすため、わざと目立って敵を引きつけておく役目を果たすこともあります。

基本的に戦国時代の合戦というのは、大将の首が取られたら勝敗が決しますから、足軽や雑兵などもみな大将の首を狙っていました。

きっとそうしたことも、影武者という存在が生まれた理由の1つでしょう。

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影武者にはそっくりさんが必要!?

テレビがこれほど普及し、誰でもスマホで手軽に写真を撮れる現代とは違って、戦国時代に顔や体型などの個人情報が広く知られることは殆どなかったと言えます。

普通の人の場合なら、よく顔を知っている人と言えば家族や近所の人ぐらいです。

ですから、戦いの時に身代わりの誰かに似たような格好をさせ、代役=影武者として利用することは戦略としては、かなり有効な手段だったようです。

影武者になるための条件として、実は容姿もそれほど似ている必要はありませんでした。本物の顔や背格好など特徴を知っている人の数が限られているからです。

要するに、何となくそれらしい雰囲気が出せていればOKだったのでしょうね。

実際、土佐の山内一豊が5人の影武者を連れて一緒に歩いたとか、大阪夏の陣では真田幸村の影武者が何人もいて、あちこちで「我こそ真田幸村を討ち取ったり!」という情報が飛び交っていたなどという話も残っています。

武田信玄によく似ていたという影武者 武田信廉

さて武田信玄の場合ですが、1980年に『影武者』(黒澤明監督)という映画が作られているくらい、信玄公と影武者の話題は豊富にあります。

その中でも特に名前を知られているのが、実弟の武田信廉(後に出家して逍遙軒とも)です。

この人は顔や骨格、雰囲気が信玄公そっくりだったとのこと。側近でも見分けがつかなかったと『甲陽軍艦』には書かれています。

彼が特に影武者として重要な役割を果たしたのは、武田信玄の死後のことだと言われます。

その死を「3年間は隠匿せよ」という信玄公自身の遺言を守るため、影武者として信玄がまだ生きているように見せかけていたそう。

信玄の生死を確かめに来た、小田原城主:北条氏政からの使者にも武田信玄として応対し、見破られることがなかったとか。

武田信繁は影武者として、上杉謙信と一騎打ちをした!?

また、信玄公のすぐ下の弟だった武田信繁も、影武者を務めたという説が残っています。

特に前述の逍遙軒のような目立った逸話はないのですが、武田信繁は信玄公配下の武田二十四将の筆頭に挙げられており、総大将の兄:信玄に対して、常に副将のような立場にいた人でした。

ですから、戦の際に影武者的な役割を果たすことがあったとしても、不思議ではありません。

しかし、信繁の場合、兄:武田信玄に対してもっとも影武者的な役割を果たしたと言えるのは、彼が戦死した第4次川中島の戦いでの行動でしょう。

上杉軍に作戦の裏をかかれ、武田軍が一時は絶体絶命のピンチに陥ったこの戦いにおいて、信繁は総大将の兄を守るため最前線に出て奮戦し、討ち死にを遂げたと伝わっています。

この戦いで、謙信公と信玄公があの有名な一騎打ちをしたと言われていますが、実はその時に上杉謙信と対峙した武将こそ、身代わりとして討って出た弟:信繁だという説もあるのです。

その説の真偽の程は定かではありませんが、戦の後、信玄公は亡き弟の体を抱きしめ、人目もはばからず号泣したと言います。享年37歳、壮烈な最期でした。

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武田信繁の人柄

実はこの信繁、信玄の前の当主:信虎、つまり2人の父には兄の何倍も可愛がられ、家督を譲られるのではないかと思われたこともあったと伝わります。

普通ならそこでお家騒動になりそうなところですが、信繁自身はいつも兄:信玄を立て、兄が当主となってからも献身的に協力し続けました。そして、最後はとうとう信玄公のために命を捨てたのです。

その人柄で多くの人から慕われていた信繁の死は「惜しみても尚惜しむべし」と深く哀悼され、武田家臣の1人真田昌幸は次男の諱(いみな)をこの人にちなんでつけたとも言われています。

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ナカガワ マスミ

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投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
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