本願寺顕如率いる一向一揆 どうして、加賀国が教団の支配下に置かれた原因
1488年から1580年にかけて加賀の本願寺門徒たちが中心となって起こった、加賀一向一揆。
戦国時代の一揆の中でも最も有名とも言えるこの一向一揆が起こった原因とはいったい何だったのでしょうか?
当時の時代背景などから探っていきましょう。
加賀国の支配争い
室町幕府によって加賀国の守護職を与えられ、加賀国の北半国を支配した赤松政則。
しかし、その土地は元々赤松家とは無縁だった上、富樫家の勢力が強く、その支配は困難を極めました。
そして、富樫政親は赤松に奪われた加賀半国を取り戻そうと家臣団に擁立されて尽力しました。
政親は1467年、8代将軍足利義政の後継者をめぐる争いから、応仁の乱が起こると、細川勝元側の東軍に従軍しましたが、弟の富樫幸千代は西軍についたので、そこから富樫家の家督争いにも発展しました。
1473年には政親は真宗高田派と組んだ弟:幸千代に破れ敗走しますが、これに対して政親は本願寺(一向宗)や越前の朝倉孝景の援助、加賀国内の武士団の支持を得て、弟:幸千代を加賀国内から追い出して家督を相続し、加賀国の守護となりました。
恩を仇で返した富樫
しかし、これを機に勢力を強めた一向宗は守護などへの年貢を納めないといった反発をするようになりました。
政親も弟との戦いの際、本願寺門徒の実力の恐ろしさを感じていました。
両者は次第に争うようになり、政親は本願寺とそれに繋がる豪族の統率を試み、門徒の弾圧を開始しました。
富樫政親の自害
政親の弾圧から一時は越中に逃れた門徒たち。
一方、政親は加賀の一国支配の認知を目指して、1487年、9代将軍:足利義尚による長享の乱に従軍しました。
しかし、戦費の拡大により国人層から不満が爆発し、怒った国人たちは1488年、政親の大叔父:富樫泰高を擁立して越中から戻った本願寺門徒とともに決起し、高尾城において政親を自害に追い込みました。
以降、本願寺による加賀支配が約100年ほど続きました。これが加賀一向一揆です。
一向一揆の先導者と参加者
加賀の一向一揆の後、「百姓のもちたる国」と称されました。
しかし、一向一揆の本質は「一向宗の坊主による支配」であり、農民たちは武士(守護)に納めていた年貢と同じほどのものを、一向宗に納めていました。
加賀の一向一揆の指導者として本願寺顕如に擁立された七里頼周・下間頼照がいます。
その他、本願寺の門徒たちだけではなく、加賀の国人(土着の武士)衆や百姓たちから構成されています。
加賀の一向一揆の終息
1570年~1580年にかけて起こった石山合戦によって本願寺顕如が織田信長に破れ、本願寺は壊滅します。
また。信長は1575年に越前に侵攻しました。前述の下間頼照は観音丸城にたてこもり、信長軍を討とうとしましたが、地元の一揆勢の協力を得られず、落城し、頼照は真宗高田派(富樫幸千代の味方をした門徒)の門徒に発見されて首をはねられました。
七里頼周は逃亡したが、織田軍に見つかって処刑されたと伝えられています。
こうして本願寺を制圧した信長は、顕如に対して全国の本願寺門徒に武力蜂起の停止を呼びかけさせ、約100年続いた加賀の一向一揆は終息しました。