築山殿は悪妻だった!? 徳川家康正室の謎に包まれた生涯とその性格
徳川家康が何人もの側室を持った大変な女好きだったことは有名だと思いますが、家康の正室だった女性、築山殿のことを皆様はご存じでしょうか?
後世書かれた書物は一様に、「築山殿は性格が悪く、妬み深かった」「築山殿が息子の信康をそそのかして謀反を企んだ」等と書かれています。
果たしてそれは真実なのでしょうか。今回はその謎に迫ってみようと思います。
今川義元の姪として生まれ、義元の養女になって家康に嫁ぐ
築山殿の生年は家康と同年の天文11年(1542年)であるとも、また家康より年上であったとも言われており、定かではありません。実名も不明です。なお、実父の元の名字にちなんで瀬名御前と呼ばれることもあります。
父は駿河今川家の一族・今川関口家の当主であり、重臣の1人でもあった駿河持船城主の関口親永(初名:瀬名義広)。母は今川家第9代氏親の娘で、今川義元の妹にあたります。
築山殿は弘治3年(1557年)、その頃、三河の岡崎から人質に取られ駿府城下にいた松平次郎三郎元信(後の徳川家康)に、義元の養女として嫁ぎました。今川が三河を支配下に置くための政略結婚とはいえ、国人領主(土豪)である松平家と足利将軍家に連なる名門・今川家との婚姻は、松平元信(徳川家康)の立場からすれば破格の厚遇と言っても良いでしょう。どうやら、家康は今川義元から高い評価を得ていたようです。
2人の間には永禄2年(1559年)に長男の竹千代(後に成人して信康)、翌3年(1560年)に長女の亀姫が生まれます。結婚後すぐ続けて子宝に恵まれたのは、少なくとも最初のうちは家康と築山殿の仲が良好だったからだとは考えられないでしょうか。
運命を変えた桶狭間の戦い、父母の死と岡崎城入城拒否
けれどもそんな若夫婦2人に永禄3年(1560年)5月、大きな転機が訪れました。義元が桶狭間で敵対する尾張の織田信長に討たれ、今川が織田に大敗を喫します。この合戦の結果、家康の故郷である三河の岡崎城から今川勢が撤収。それを知った家康はこれを好機と故郷の岡崎城に帰城するのです。
しかし、築山殿と竹千代・亀姫は駿府に残されたままでした。この時の築山殿の胸の内は、不安と動揺で一杯だったと思います。一度に全てが何もかもひっくり返り、夫は自分と子どもを置き去りにしたまま連絡を絶ったのですから。
家康はその後、織田氏と同盟を組んで今川家から独立を果たしました。義元の後を継いで今川家当主となった氏真はこれを怒り、築山殿の父である関口親永に切腹を申し渡します。親永はこれを受け、妻と共に自害しました。永禄5年(1562年)のことでした。
この事件の後、家康の妻子は人質交換によって駿河から岡崎城に移されることになりました。けれども築山殿だけは岡崎城への入城を許されず、城外にある惣持尼寺に留められます。築山殿という呼び名は、惣持尼寺のあたりが築山と呼ばれていたためにこの時以降ついたものです。
信康の妻、織田家の徳姫と不和?
元亀元年(1570年)、家康が拠点を浜松城に移して息子信康が岡崎城主になり、初めて築山殿の岡崎入城が叶います。しかし、城には既に夫は不在。転機となった桶狭間から10年、この夫婦の仲を何がこれほど疎遠にしてしまったのでしょうか。なぜ、それほどまでに家康は妻を避け続けたのでしょう。
通説では天正7年(1579年)に信康と築山殿が切腹・殺害という末路を迎えたのは、信康の妻となった織田信長の長女:徳姫が夫と姑への苦情を訴えた書状を父に出し、それを真剣に受け取った信長が激怒したのが原因だと言われています。
もっともこの説は近年かなり疑問視されていて、信康と築山殿に死を命じたのは信長ではなく家康自身の判断だという説が有力です。しかし、後に家康は若くして死んだ信康を惜しむ発言をしたとも伝わっており、この2人がなぜ死を命じられなければならなかったか、その真相は今なお厚い謎のヴェールに包まれています。
まとめ
江戸時代の書物「柳営婦女伝系」や「玉輿記」「改正三河後風土記」などには、築山殿の性格が悪かったという記述が多く見られます。悪女だったので不幸な末路は自業自得だとでも言うかのようです。
しかし、生前彼女が誰かと事件やトラブルを起こしたと記録する史料は、実は何も残っていません。それにその身に起こった苦難、特に夫の行動が引き起こした悲劇を考えれば、誰に対しても人当たりの良い人でいろというのが無理な気がしませんか?
まるで臭い物に蓋でもするかのように、書状など、事実を語る同時代の史料が全く残っていないことが残念です。