豊臣秀頼はかまぼこが大好き! 当時も同じような物を食べていたの?
豊臣秀吉の後継者として、育てられた豊臣秀頼ですが、かまぼこが大好物だったと言われています。
当時のかまぼこはどのようなものだったのでしょうか。
また、現在のように一般的な食べ物だったのでしょうか。
加藤清正に蒲鉾を振舞われる
1752年に編纂された江戸時代の戦記本である『摂戦実録大全・巻一』によると、次のようなことが書かれています。
1611年(慶長16年)3月、豊臣秀頼は二条城において徳川家康と会見をしました。
そこで両者の和解を斡旋したのが加藤清正です。
その会見の帰路で清正は秀頼をもてなすために、都から梅春という料理人を呼び寄せて御馳走をつくるように命じました。
そこで梅春は秀頼の好物の蒲鉾を作ろうとしました。
秀頼一行のために大量に作る必要があったので、梅春は従来の作り方(棒に巻きつけて作っていた)とは違う方法で作りました。
これにより、秀頼一行に少しの滞りもなく蒲鉾が出され、喜んだ秀頼はたくさんの蒲鉾を食べました。
秀頼に振舞われた蒲鉾の作り方
その時、梅春が作ったとされる蒲鉾の作り方は、それから約1世紀が経ってから書かれた『及瓜漫筆』(1859年、原田光風箸)で説明されています。
それによると、梅春は大量の魚を取り寄せ、大勢でその魚をさばいて骨を取ると、大きな臼でさばいた魚をすり身にし、これを板につけて炭火で炙ったと書かれています。
秀頼以前の蒲鉾
古くは竹の棒に巻いて作っていました。
1528年の『宋五大双紙』によると、「蒲(がま)の穂に似せたるものなり」と書かれており、ここから「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされます。
しかし、この竹に巻いて作られた最初期の蒲鉾は、秀頼以降の板付きの蒲鉾と区別するために「竹輪」と呼ばれるようになりました。
この頃は原料はナマズが使われていました。
江戸前期(1643年)の『料理物語』には原料として、たい・はも・たこ・いか・かれい・えび・鮭・鯰などがあげられています。
平安時代後期には蒲鉾は貴族階級の祝賀料理として位置づけられており、平安時代の『類聚雑要抄』には1115年に藤原忠実が転居祝いに宴会を開いた時に蒲鉾を供したと書かれています。
これが文献上確認できる最古の蒲鉾と言われています。
秀頼以降の蒲鉾
秀頼に供された板付き蒲鉾は焼き蒲鉾ですが、現在の主流である蒸し蒲鉾が登場したのは江戸末期に入ってからだと言われています。
江戸時代後期の風俗事物を説明した百科事典である『守貞漫稿』によると、「江戸にては焼て売ることなく、皆蒸したるのみを売る」と書かれています。
原料は現在ではスケトウダラやサメなどの白身魚が使われており、みりんや砂糖、卵白なども使われています。
また、蒸し蒲鉾だけではなく、焼き蒲鉾もありますし、揚げ蒲鉾(さつま揚げ等)、笹かまぼこなど色んな形態でつくられています。
大衆に広まった時期
蒲鉾の原材料である白身の魚は高級品とされ、蒲鉾もごちそうとされていました。時に贈答品、時におせち料理として使われていました。
本能寺の変で織田信長が最後の晩餐に食べたものの中にも蒲鉾が入っていました。
武家の結婚式には縁起物として鯛が供されましたが、経済的に用意できない場合は模造品(飾り蒲鉾)で、次第に庶民の結婚式にもこれが用いられるようになりました。
蒲鉾が商品化されて販売されたのは江戸時代以降とされています。
また、明治35年頃から機械文明が導入されたのと、漁業の能率化により広く大衆にも蒲鉾が親しまれるようになりました。
第二次世界大戦後の食生活の改善により、さらに蒲鉾の需要が高まり現在に至ります。