大坂城落城後の豊臣秀頼の子孫たちの運命
秀吉の唯一の後継ぎとなりながら、大坂の役で家康に敗北し、自刃した豊臣秀頼。
彼には2人の子どもがいたといわれています。
大坂城落城後の彼らの運命はどのようなものだったのでしょうか。
豊臣国松
長男は国松といい、母親は側室の伊茶という人物です。
秀頼にとっては待望の男児であったと思いますが、正室である家康の孫・千姫に子がいなかったことから、はばかって淀殿の妹・初のところに預けられ育てられました。
大坂の役に際し、大坂城にて初めて秀頼に対面。しかし、夏の陣で豊臣方の敗北が濃厚になると、乳母・側近らと共に大坂城から脱出しました。
しかし、その存在が家康の知るところとなり、捕縛。六条河原にて斬首されました。
詳しくは国松の記事をご覧ください。
天秀尼
天秀尼の幼少期はよくわかっていません。天秀尼という出家名を名乗る前の名前も、母親の名前もわからないのです。
19世紀前半に編纂された『台徳院殿御実紀』では天秀尼の母は成田氏(五兵衛助直女)とされていますが、同時代史料にはこうした記述がないことや、年齢に1歳の誤差があることから信憑性が疑われているようです。
国松と同じく生まれてすぐ大坂城を出てよそで育ち、大坂の役の際に国松が入城したのと同じころ天秀尼も大坂城に入ったと考えられています。
しかし、国松と違うところは大坂城落城後の運命でした。
大坂城落城に際し、城を脱出した天秀尼は、京極忠高に捕縛されてしまいます。このままでは死罪となってしまうというところで、彼女の助命を求めた女性がいました。
それが秀頼の正室で家康の孫、秀忠の娘である千姫だったのです。
千姫は秀頼と淀殿の助命嘆願のため城を出ましたが、その願いは聞き入れられることはありませんでした。
しかし、養女として寺に入れることを条件に天秀尼の助命が認められることとなりました。
政略結婚でありながら、秀頼と仲睦まじく過ごしていたといわれる千姫。大坂城落城後、随分と気落ちしてしまっていたことでしょう。天秀尼の助命はこうした千姫を何とか慰めたいという祖父心、親心があったのかもしれません。
駆け込み寺で女性救済
江戸時代、幕府公認の駆込み寺(縁切寺)は2つありました。
そのうちの一つで、2015年5月16日公開の映画『駆込み女と駆出し男』の舞台となった東慶寺を駆け込み寺としたのが天秀尼です。
1年間千姫の養女として育てられた天秀尼は、約束通り鎌倉にある東慶寺に入ることになりました。それに際し、家康は何か願いはないかと尋ねました。
そこで天秀尼は「東慶寺は、開山以来女性の救済を掲げている寺と聞きました。その女性救済がより強く、永遠に続くようにというのが願いです」と答えたそうです。
こうして天秀尼の願いを聞き入れた家康の「御意向」は江戸時代を通じて守られ、天秀尼は「東慶寺中興の大和尚」と呼ばれるようになりました。
正保2年(1645)、東慶寺を復興させた天秀尼は37歳という若さでこの世を去りました。
もう一人いた!?秀頼の息子
と、ここまで二人は秀頼の子として認められていますが、秀頼にはもう一人息子がいたという説があるのです。
それが、求厭という人物です。
彼は元禄元年(1688)まで生きた浄土宗の僧なのですが、その臨終の際、自分は豊臣秀頼の第二子であると告白したのです。
享年80ということなので、生まれは1608年ころと考えられますが、1608年と言えばちょうど国松が生まれた年です。
彼は大坂の役の際には江戸に潜伏して難を逃れ、その後仏門に入ったというのです。
しかも、彼が修業をしたのはあろうことか、徳川の菩提寺の一つ増上寺。
徳川の菩提寺で父・秀頼以下豊臣の人々のためにお経を読むことで、その恨みを晴らそうとしていたとまで言ったそうです。
本当であればなんとドラマチックな人生でしょう。
今となっては確かめようもありませんが、実際慶長20年(1615)5月15日付けの細川忠興書状に、国松に弟があることをにおわせる記述があるのです。
秀頼様御子様御一人ハ十、御一人ハ七ツに御成候、行方不知候ニ付、諸国御尋之事ニ候
ただ、これだと二人の年の差は3つ。
求厭が秀頼の息子という説にが真実かどうかについてはやはり疑問が残りますが、こうした内容の書状はこれ以外にもあったそうなので、当時国松に弟がいたと考えられていたことは間違いないようです。