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豊臣秀頼の身長と体重が大坂の役敗北の原因!?

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豊臣秀吉の後継ぎとして淀殿の愛情を一身に受けて育った豊臣秀頼。

京わらべ歌に「花の様な秀頼様」と歌われたり、残されている肖像画を見る限り、ととても小柄で優しそうな男の人だったことが想像されます。

しかし、実際は「小柄」とは程遠い巨漢だったというのです。

秀頼の体格はどんなものだったのでしょうか。

体格は力士級!?

江戸時代中期に成立した逸話・見聞集である『明良洪範』には、秀頼の体格について、身長は6尺5寸(約197m)、体重は43貫(約161㎏)というとんでもない巨漢だったと記されています。

ちなみに、現横綱の白鵬関は身長192㎝、体重160㎏ということなので、秀頼の体格は力士級といえるでしょう。

他にも『長澤聞書』には「世に無き御太り」と記されています。この『長澤聞書』というのは後藤又兵衛に近侍した長澤九郎兵衛が大坂の役の様子を記したものなので、実際に本人を目にしたこともあったでしょうから、かなり太っていたことは間違いないようです。

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原因は運動不足?

文禄2年(1593)、秀頼は誕生しました。

ちょうど朝鮮出兵がおこなわれていた頃で、秀吉自身も九州に赴いていましたが、秀頼誕生の報を受けるとすぐさま大坂に帰ったといいます。

そして、淀殿に対して、つねに秀頼の側にいるように指示しました。

一人っ子政策が布かれている中国では、その愛情ゆえに度々超肥満児が育っていると聞きましたが、秀頼も両親の愛情を一身に受けながら育つことになりました。

秀頼は幼少時は伏見城で、秀吉の死後は大坂城で過ごしますが、その間秀頼が城の外に出たのは2回だけ、転居のときと二条城で家康と会見したときだけだったといいます。

もちろん、城も動き回ろうと思えばかなりの広さですが、意識しなければ座って過ごすこともできるわけで、秀頼が「世に無き御太り」になった原因は運動不足といえるでしょう。

難攻不落といわれる大坂城の中で座って過ごせば、転んでけがをすることも不慮の事故にあうこともないのですから。

大坂の役の敗北は肥満が原因!?

慶長20年(1615)、大坂夏の陣で苦戦を強いられた西軍(豊臣軍)は味方の士気を高めるため、秀頼の出馬を請願しました。

真田幸村は、秀頼出馬を促すため、使者として人質として息子の大助を城へ出向かせたといいます。

そうした甲斐あってか、秀頼は桜田門まで出ていきます。しかし秀頼はすぐに御殿に引き返してしまいました。

馬印と幟だけが法円坂付近まで出陣したそうですが、本人不在ではむしろ味方も興ざめ、士気も逆に下がってしまったかもしれません。

一見すると秀頼が戦に出るのを嫌がったようにも見えますが、私はすべての原因は秀頼の肥満ではないかと思うのです。

そもそも「出馬」できたとは思えないのです。

当時の馬は、現在私たちが馬としてイメージするサラブレッドではなく、ポニーサイズの小さな馬でした。

詳しくは合わせてこちらをお読みください。

もし、秀頼が本当に160㎏を超える巨漢であれば、彼を乗せることのできた馬は当時いなかったのです。いたとしてもそれこそ桜田門で力尽きてしまったはずです。

他にも御輿で出馬というのも考えられますが、やはり下で支える方は耐えられるものではありません。

そういえば、慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いでも西軍を率いた石田三成が秀頼の出馬を要請しましたが、淀殿の反対に遭い実現しませんでした。

豊臣家を存続させたいという思いが秀頼を肥満にし、それゆえに関ヶ原の戦い、大坂の役と重要な戦の敗北の原因の一つとなってしまったことは、皮肉な結果といえるでしょう。

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