徳川光圀は黒人の家臣を引き連れて北海道探索をしていた!?
「水戸黄門」で有名な徳川光圀。
彼は若い頃さんざんヤンチャをしてきた豪傑な人でした。しかし、その一方で非常に好奇心が旺盛で新しいもの好きでした。
そんな彼は初めてみた黒人に対して驚くどころか、非常に気に入り、自分の家臣にしてしまったと言います。
織田信長にも似たようなエピソードがありますが、徳川光圀の場合はどうだったのか見ていきましょう。
蝦夷地へ旅立った光圀
徳川光圀は貞享(1684~1687年)から元禄(1688~1704年)の始めにかけて、蝦夷地(後の石狩国・北海道)の探索を行いました。
当時の日本は鎖国をしており、大型の船を建造することも禁止されていましたが、光圀は幕府に許可をもらい「快風丸」という巨船を建造して蝦夷地へと旅立ちました。
光圀の蝦夷地探索の動機と目的は明確にはされていませんが、北方防備説・地理的探索説・物産交易説などが言われています。
水戸藩にとって蝦夷地は重要な拠点だと考えられていたことが伺えますね。
光圀が北方領土の重要性を説いていることは「大日本史」の「北島志」などにも書かれています。
黒人とともに蝦夷地へ
光圀は若い頃、(鎖国時代に、中国とともに唯一来航が許されていた)オランダ人の商人が奴隷として連れていた黒人と出会っています。
初めて見た黒人を珍しく思い、また奴隷であることを不憫に思って自分の家臣とし、蝦夷地探索の仕事を与えました。
この黒人は二人の測量技術を持った人間だったようで、その能力も蝦夷地探索には大いに役だったのでしょう。
光圀はこの二人の黒人がアフリカの出身だったということは知らなかったようですが、外国人という者自体が珍しかった当時、「奴隷」としてではなく、「家臣」として迎え入れたのは光圀の豪胆な性格が表れていると思います。
光圀は黒人だろうが白人だろうが、出会うと目をキラキラさせて「何か面白いことを教えてくれ」と、外国人との会話を楽しんでいたと言います。
ちなみに光圀は、本当に肌が元々黒いのかを調べるために、黒人に布で体を拭いてみてくれと頼んだとされています。
これは織田信長が黒人と初めて会ったときのエピソードと同じですね。
蝦夷地から帰還した黒人たちへの処遇
無事蝦夷地探索から帰還した一行。光圀はその後もその黒人二人を「譜代の家臣」として召し抱えています。
「譜代の家臣」とは特定の主家に先祖代々仕えてきた家臣という意味です。
それほどまでに光圀は、この黒人二人を気に入ったということでしょう。
この二人に与えられた石高は、あの有名な家臣である「助さん格さん」よりも上で、数百石あったと伝えられます。
そして、その黒人二人の子孫は、廃藩置県で藩が解体するまで水戸藩に代々仕えていたという記録が残されています。
能力がある者は誰であろうと評価するその姿勢は、さすがは黄門様!という感じですね。
また、光圀よりも100年ほど前の人物である織田信長も、宣教師とともに日本にやってきた黒人のことを気に行って、「ヤスケ」という名をつけて自分の家臣にしたと伝えられており、うつけだったというエピソードにしても黒人を家臣にしたというのも似ていますね。