多趣味な徳川家康 実は囲碁も大好きだった!?
徳川家康は鷹狩りを好んだり、健康のために薬を調合していたりと多趣味な人物として有名ですが、囲碁もとても好きだったとされています。
彼の腕前はどれほどのものだったのかなど彼と囲碁の関係について見ていきましょう。
本因坊算砂に師事
天下を取るためにしのぎを削っていた戦国武将たちの多くは囲碁好きな人が多かったといわれています。
とりわけ徳川家康が囲碁を愛好していたことは、山科言経の『言経卿記(ときつねきょうき)』、『徳川実記』『駿府記』などの文献に書かれています。
家康は、法華宗寂光寺の僧で棋士でもあった本因坊算砂という者を京都から江戸に呼び出して師事しました。
本因坊家と井上家、林家、安井家の四家が碁の家元と呼ばれ、この四家は幕府から扶持(主君から与えられた給与としての米)が与えられました。
家康は、家元を保護し、囲碁の発展に貢献したことから2004年に本因坊算砂とともに囲碁殿堂に選ばれています。
家康の囲碁相手
家康は諸大名のみならず、豪商や公家たちとも碁を打っていました。
特に浅野長政、織田信雄(信長の息子)、伊達政宗らを好敵手としていました。
浅野長政(豊臣政権の五奉行の筆頭で、関ヶ原の戦いにおいては家康を支持した)とはよく囲碁で対戦していました。
二人の実力は伯仲しており、対局中に長政が家康に憎まれ口をたたいたり、家康に助言をした本因坊算砂に対して腹を立てたと言います。
1611年に囲碁の好敵手だった長政が死去すると、家康は気落ちして囲碁をするのが激減したとされています。
また、家康は囲碁について「碁打ちは暇人のうつけ者がやるものだと思っていたが、中年になってからやってみると中々良いものではまってしまった」という旨の手紙を、浅井長政の娘で後に家康の息子の嫁になった、お江宛てに書いています。
家康の将棋の腕前
家康が征夷大将軍となった時、本因坊算砂がお祝いに参上し、囲碁の対局をしています。
その時、五子で対局したと言います。
囲碁にはハンデがあって、棋力の差がある二人が対局する場合あらかじめ置石をして対局します。
置石の数によって2子局、3子局…といいますが、五手の手合いということは5子局であり、置石が5個置いてあることになります。
現在でいう段や級の差が一つ増すごとに置石も一つ増えます。5子局なら5段(級)の差があるということになります。
名人に5子で対局できるならば、家康の腕前も相当なものですが、算砂が本気で家康相手に戦うとは思えない(手加減しているはず)のでその実力のほどは計りかねますね。
家康が打った碁の棋譜は現在の段階では見つかっていないと言われています。
碁好きな武将たち
家康や、先述した家康の好敵手である浅野長政、織田信雄、伊達政宗らの他にも碁好きな武将はたくさんいました。
黒田官兵衛、織田信長、豊臣秀吉など…。
本因坊算砂は家康以前にも織田信長や豊臣秀吉にもかわいがられていました。
信長は本能寺の変の4年ほど前から碁を打ち、算砂を幾度となく呼び寄せて対局し、算砂を「名人だ」と褒めたたえたとされています。
秀吉はよく碁打ちを集めて、今でいう全国大会のようなものを開催していました。
浅野長政と黒田官兵衛は朝鮮出兵の時にも対局しており、その最中に訪ねてきた石田三成の存在に気づかずに、三成を激怒させてしまいました。
三成はこれを秀吉に言いふらします。
しかし、秀吉は「二人の碁好きは知っていたが、わしは軍事に気を取られ、碁を禁止するのを忘れていた。碁に気を取られて大事な仕事を忘れるなど言語道断だが、わしも失念していたのでわしの落ち度である。なので黒田を咎めるでない。」と黒田を擁護しています。
囲碁は頭脳と精神を鍛えることができるといわれています。
戦にあけくれた武将たちにとって頭脳と精神力を鍛えるために囲碁を打っていたのではないでしょうか。