豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)。
時代小説・ドラマなどで彼女は夫の死後、徳川家康に味方したと描かれることが多いですが、実際はどうだったのでしょうか?
また、北政所と秀吉の後継ぎ秀頼の母・淀殿は対立していたという説があります。2人は本当に不仲だったのでしょうか。
北政所は、淀殿と関係が強い石田三成の西軍に味方せず、関ヶ原の戦いでは東軍側についたのでしょうか。
「天下分け目の合戦」の裏事情を、女性の立場から探ってみましょう。
淀殿と北政所の対立は、後の時代のエンターテインメントだった?
北政所と淀殿が”不仲だった”と描写されている書物の中で時代が古く有名なのものに18世紀の終わり頃書かれた「絵本太閤記」という読本があります。
そこには「佐々成政の献上した黒百合」を巡って2人が争う場面が書かれます。しかし、これは関ヶ原から約200年後に出た創作作品です。
そして、石田三成が淀殿と結託していたと最初に書いたのは、江戸時代も後期の人物・頼山陽でした。
その他、司馬遼太郎や杉本苑子の小説、そしてドラマ等、創作の中で書かれている以外に、2人の不仲を示すエピソードは、本当に見当たらないのですね。
つまり、数々のエピソードは、全て想像の産物。エンターテインメント性が高いものなのです。
歴史的事実としての裏付けを示す史料は見つかっていない
結局、北政所が淀殿を嫌った、または石田三成と不仲だったという事実を示す様な信頼性の高い史料は今のところ見つかっていません。
また、特に家康と親密だったことを窺わせる史料も存在していません。
むしろ、最近の学者の研究では、「東軍の武将達よりも、西軍武将との関係性が強い」「淀殿とは秀吉の未亡人同士、協力関係にあった」などと言われてきています。
それでは何がこれほどまでに江戸時代の人、そして現代の作家たちの想像をかき立てる原因となったのでしょう??
西軍から東軍へ-実の甥・小早川秀秋の裏切りが注目を集めた!?
理由のひとつに、武将:小早川秀秋との関係が原因に挙げられると思われます。
この武将の寝返りをきっかけに、関ヶ原の戦いはわずか数時間のうちに東軍勝利で終わりました。
彼は小早川家を養子として継いだ人物であり、実の父は北政所の兄:木下家定。そう、秀秋は北政所の血の繋がった甥だったのです。
一説には彼が小早川家の養子におさまったのも、北政所の働きかけがあったからだと言われています。
こうした事情が当時の人々の注目を集めたのではないでしょうか。
東軍武将 黒田長政の暗躍 北政所の名前で秀秋を揺さぶった
そして、そんな秀秋を動かしたのは、豊臣家臣で東軍に参戦していた黒田長政の調略(寝返りを促す工作活動)でした。
小早川秀秋に黒田長政が浅野幸長と連名で送った書状に、「北政所様のためにこちらへつけ」というような文面が残っています。
これは、北政所の名前を長政が出したというだけで、北政所本人が「徳川殿に味方しなさい」と指示をした訳ではありません。
しかし、読む人にはそのような印象を与えてしまいかねない書状の書き方です。
これを目にした後世の人が「北政所が裏で動いていたのか」と思った可能性は、大いにありそうです。
北政所と家康の後継・秀忠との仲は非常に良好だった
また、北政所は、家康の後継者・徳川秀忠とは、生涯良好な関係にあったと知られています。
子どもの頃、秀吉に人質として預けられた秀忠の面倒を、親身にみてくれたのが北政所でした。
更に、正室・江も秀吉と北政所の養女として秀忠に嫁いできています。
秀忠の生母は早く亡くなっているため、彼は北政所のことを本当の母のように感じていたのではないでしょうか?
上洛の度に、彼女の住む高台院に挨拶に出向いていたと伝えられています。
時代が下がるにつれ、この秀忠との親密さが家康と混同された可能性はあるかもしれません。
西軍の総帥、石田三成との実際の関係は!?
北政所と石田三成、本当のところはどんな関係だったのでしょうか?
詳しい事は何も分かりませんが、三成の娘・辰姫が慶長3年(1598年)頃に北政所の養女となったという記録が残っています。
つまり、少なくともその頃までは、2人は良好な関係だったのではないかと思われるのです。
まとめ
関ヶ原の合戦は、たとえ家康の本心が豊臣打倒だったにせよ、建前ではあくまで私人の石田三成と豊臣家の大老・徳川家康の戦いでした。
つまり、淀殿も北政所も、内心の思いがどうであれ、表立って三成を支持すれば亡き夫・秀吉に背くことになります。
うかつに態度を表明できる状態ではなかったのですね。
この時代、女性である北政所や淀殿には、戦いの時に個人的な気持ちを行動で表現する自由はなかったとも言えるのではないでしょうか。
その結果、後から対立関係などを勝手に作り上げられてしまった北政所の人生が、私には少し悲しくも思えてきます。