暗殺された元新撰組の御陵衛士 藤堂平助の生存説とは
伊東甲子太郎とともに御陵衛士を結成するために新撰組を離脱した藤堂平助。
彼は1867年、油小路の変で伊東らと共に新撰組によって切り殺されてしましました。
しかし、彼には生存説があります。
もしそれが本当ならば、彼はその後一体何をしていたのでしょうか。
油小路の変で殺された藤堂平助
油小路の変で新撰組に斬られた御陵衛士の盟主、伊東甲子太郎の遺体を引き取りにきた藤堂平助。
新撰組は御陵衛士の者たちを粛清するために、伊東の遺体を路上に放置し、御陵衛士たちを待ち伏せしていました。
永倉新八の『新撰組顛末記』によると、新撰組局長の近藤勇は「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と言っていたと記されています。
しかし、藤堂平助は近藤の思いを知らなかった三浦常三郎に斬られてしまいました。
斬られた時の状態と、遺体について
顔面を斬られたらしく、その傷は長さ21cm、深さ6cmに達し、即死に近かったとされます。
他方で、近藤の意志を酌んだ永倉が藤堂のために道を開けて逃がそうとしたところ、三浦が藤堂の背中を斬りつけ、「背中を斬られては武士の恥」と応戦した藤堂は複数の傷を負って亡くなったという説もあります。
藤堂の遺体も伊東の時のように、他の御陵衛士たちを引き寄せる囮として、2日ほど路上に放置されました。
その後、藤堂らの遺体は光縁寺に埋葬された後、生き残った御陵衛士たちによって泉涌寺の塔頭戒光寺に改葬されました。
藤堂平助は生き残っていた?
藤堂平助生存説は、昭和55年に谷春男が「歴史と旅」という雑誌の11月号に投稿した「油小路の藤堂平助」で書き記したものです。
それによると、九死に一生を得た藤堂平助は横浜に移住し、元新撰組隊士であった川村三郎(近藤芳助)とともに水道事業で大儲けをたと言います。
私生活では妻と息子の3人で暮らし、大正11年頃に亡くなったとされます。
事の真偽はいったい!?
最初に埋葬された光縁寺の過去帳には「藤堂平助宜虎(たかとら)」の名が書かれています。
敵方である新撰組隊士である永倉新八も、その著書で藤堂は死んだと書いていますし、藤堂がこの油小路の変で亡くなった可能性の方が高いと思います。
生存説は、その人に生きていて欲しかったと思う者の創作のことが多いです。
「史実」とは違った「伝説」の類ですね。
生存説は藤堂だけではなく、源義経・西郷隆盛・織田信長・明智光秀などにもあります。
病死ではなく(広い意味で)殺された人達に多く、「もしこの人が生きていたら歴史が変わっていたかも…」という想いからそういう説がでるのでしょうね。