太原雪斎といえば、今川義元にとっての最高の参謀で、当時の今川家は彼がいなくては成り立たないと言ってもいいほど、重要な人物でした。
そんな太原雪斎ですが、幼少期の徳川家康が師事していたとも伝わっています。
しかし、人質の身分である家康を、雪斎は本当に教育したのでしょうか?だとすれば、なぜそんなことをしたのでしょう?
義元の考えあってのことだったのでしょうか。
謎の多い家康と雪斎の関係ですが、検証していきたいと思います!
今川家における太原雪斎とは
太原雪斎は、元々は今川氏の譜代の家臣である庵原(いおはら)氏に生まれましたが、幼くして僧籍に入ります。
秀才の誉れ高く、後に彼の修行する寺には幼い今川義元が預けられたため、その養育係を務めることになりました。
その後、今川家に家督争いが発生します(花倉の乱)。雪斎は義元を補佐し、この戦いを勝ち抜き、見事義元を今川家当主に押し上げました。
そして、義元の側近中の側近として、政治・軍事両面で欠かせない存在となり、「黒衣の宰相」として今川家の屋台骨を支えました。
雪斎が家康の教育係を務めた理由
林述斎(はやしじゅっさい)らの撰による「朝野旧聞褒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」という史書には、雪斎が家康の師であったということが載せられています。
しかし、何故、人質の身分にすぎない家康を今川の重鎮である雪斎が教育したのでしょうか。
ここには、義元の意図があったと考えられます。嫡男の氏真が成長していく中で、義元は、息子にとって信頼できる家来が必要だと考えたのでしょう。
氏真と家康の年齢が5つほどしか違わないため、学友という立場でも良いと考えたかもしれません。
義元が雪斎に受けたような教育を家康に授けることで、家康を有能な臣下として育てたかったのだと思われます。
根強い異論も…
雪斎が家康を教えたことはないとする説もあります。
というのも、家康が今川の人質となっていた時期が、雪斎が駿府を不在にしていた時期と重なるというのです。
そのため、教えることなどありえないという論説もあります。
家康が雪斎から学んだ内容
雪斎が家康を教育したとすれば、義元に教えたのと同じことを授けたと思われます。
政治と軍事両面で活躍できるように、兵法・歴史・政治のすべてを教えたのでしょう。
だからこそ、それが後の家康の天下取りにつながっていったのではないでしょうか。
まとめ
雪斎は家康に教育を授けたのかもしれませんが、それが今川家のためにならなかったことは残念ですね。
後に家康は、雪斎がいなければ今川は立ち行かないと発言していますが、それは雪斎をよく知っていたからこその発言と考えても良いのではないかと思います。