実はデブでメタボ体型!? 徳川家康の体型に迫る!
戦国大名の身長って、気になる人は多いみたいで、当時の平均身長がどれくらいとか色々出てきますよね。
では、身長と言ったら次は体重です。
徳川家康のイメージって、まるっとして、まさに「狸」という感じの体型ではありませんか?
しかし、家康には健康オタクだったという側面もあるのです。なのに太っていたと言われるのは何故なのでしょうか。
家康が肥満だったという謎を解明してみたいと思います。
家康は実は肥満体!?
1609年に家康に謁見したことがあるルソン総督のロドリゴ・デ・ビベロは、自身の著書「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、家康について、中背の老人であり、色黒くはなく肥っていたと述べています。
また、江戸幕府の公式記録である「徳川実紀(とくがわじっき)」にもエピソードがあります。
豊臣秀吉の聚楽第で猿楽の興行があった時に、諸大名が舞を披露しました。家康も「舟弁慶」の義経を舞いましたが、元々肥え太っている上に大して上手くやろうともしないため、義経には見えないなとみんなが笑ったそうです。
やはり、壮年期以降は太っていたみたいですね。
健康オタクじゃなかったっけ?
家康は武術や薬学に通じた人物として当時も知られていました。
武術に関しては、剣術・馬術・弓術・鉄砲・水練など、すべて達人の域の腕前だったそうです。運動好きだったことは確かなようです。
また、薬学に興味を示し、多くの書物を読み、自ら生薬の調合も行っていました。八味地黄丸(はちみじおうがん)という腎・生殖機能に効果のある薬を調合して服用しており、久能山東照宮には彼が使った薬箱などが残されています。
そして、食事にも気を使っていました。若い頃より質素な食事を好み、特に麦飯と魚、野菜を取るように心がけていたそうです。
なのにどうして太っていたと記録に残っているのでしょう?
これは、現代の私たちも避けて通れない、「中年太り」も関与していると思われます。
家康が19歳の頃使用した金陀美(きんだび)具足と、関ヶ原の戦いの際に着用していた歯朶(しだ)具足が今日にも残っているのですが、明らかに胴回りの太さが違います。
また、家康は下腹が出ていて自分では下帯を締められなかったというエピソードが、江戸時代の兵法家・大道寺友山(だいどうじゆうざん)の「岩淵夜話」にあります。
一説では、腹囲が120㎝もあったという話も聞かれます。メタボ健診における腹囲の基準値は男性85cmと言われていますので、立派なメタボ体型だったわけですね…
食生活にいくら気を使っていたとはいっても、いいものを食べる機会も昔よりは増えていたのかもしれませんね。
馬に乗れなかったという説は本当?
関ヶ原の戦いについてですが、日光市に「神馬(しんめ)の碑」というものがあり、家康が関ヶ原で乗った馬の墓とされています。この馬は、家康が亡くなってからは日光東照宮に御神馬として仕えたそうです。
しかし、大坂の陣の際にはこんなエピソードがあります。藤堂高虎が家康の元を訪れると、家康は袴と羽織だけを身に着けていました。高虎がどうして具足を着ないのかと尋ねると、家康は「秀頼のような若輩者を成敗するのに具足などいらん」と答えます。
しかし、高虎が帰った後、家康は側近に「実は具足を着けると馬の乗り降りができんのだ」と打ち明けたそうです。
大坂の陣は1615年のこと、当時家康は74歳でした。もう十分に老人の域でしたから、馬の乗り降りは大変だったことでしょう。
まとめ
やはり、中年以降は家康は太っていたようです。しかし、不摂生の太り方ではなく、いわゆる「相撲取り」体型だったのではないでしょうか。
決して怠惰な生活をしていたわけではないことを、家康に代わって強くお伝えしたいと思います。