野球好きの敵!? 新渡戸稲造らが提唱した野球害毒論とは
旧5000円紙幣の肖像として使われていた新渡戸稲造。
彼は紙幣に描かれていた人物という以外では、何をした人なのか知らないという方も多いのではないでしょうか。
彼は教育者・農学者であり、国際連盟事務次長も務め、第一高等学校(東京大学薬学部、千葉大学医学部および薬学部の前身となった旧制高等学校)などの校長・学長となった人物です。
そんな新渡戸が、第一高等学校校長をしていた時に唱えた野球害毒論とはどのようなものだったのでしょうか。
野球害毒論とは
日本での野球の始まりは1871年、米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成学校予科で教え、その後全国に広まりました。
最初は限られたスポーツのエリート達のものだったのが、だんだんと全国の少年たちの娯楽として広まり、熱狂的な人気となりました。
そんな中で、この野球の人気に水を差したのが、「野球害毒論」です。
これは1911年に東京朝日新聞(現:朝日新聞)が掲載した、野球に対するネガティブ・キャンペーンです。
東京朝日新聞は、1911年8月29日から9月22日にかけて計22回、「野球と其害毒」と題した記事を掲載しました。
これには著名人の談話や、全国の中学校校長のアンケートの結果などを元に書かれています。
著名人の談話
この記事の構成のために集められた談話の中に、新渡戸稲造が発した言葉も使われていました。
野球という遊戯は悪く言えば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。
ゆえに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の義なし。
この巾着切りとはいわゆるスリのことです。つまり、新渡戸は野球なんて盗人のやることだ!と否定しているわけですね。
他にも著名人の談話として、陸軍大将で学習院長であった乃木希典の言葉で「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」というものなどがあります。
戦争で勝負に明け暮れた軍人さんの言うこととは思えませんね。
野球害毒論提唱の目的
東京朝日新聞がなぜこのような論説を掲載したかについては、以下の2つの理由があげられます。
- ライバル社である大阪毎日新聞(現・毎日新聞)が東京に進出してきたため。→自らの存在をアピールするために、野球の人気を利用した。
- あまりにも野球の人気が高まりすぎて賛否両論がでたため。→学生野球の人気はすざまじく、1906年の早慶戦では余りに盛り上がりすぎて審判を務めた学習院大学にまで脅迫状が届くようになった。他大学でも野球は大人気であり、行き過ぎた応援が問題視されるようになり、野球禁止令が出された学校もあった。

By: Sam Howzit
野球害毒論による影響
後に大阪毎日新聞と経営統合する東京日日新聞は、これに反して「野球擁護論」を唱え、こちらには福沢諭吉や小村寿太郎らが寄稿しました。
また現:読売新聞である日就社は「問題となる野球」と題して論陣を張り、賛成論・反対論をぶつけ合う野球問題演説会を主催しました。
こうして「野球害毒論」とそれに続く新聞各社の論争などによって、皮肉にもかえって野球への関心を高めることとなりました。
結局、この野球害毒論は、時流を変えることはできませんでした。しかし、井上ひさし著の「下駄の上の卵」という本の一説にも野球害毒論が登場し、この論説が少なからず国民に影響を与えたということがわかります。
新聞の読者層から外れる少年たちは、野球熱を衰えさすことはなく、少年野球の普及に務めました。
そして、さらに軟式ボールの誕生を迎えることとなります。