今川氏真が大好きだった蹴鞠ってどんな遊び!?
今川氏真といえば蹴鞠。蹴鞠といえば今川氏真。
戦国時代フリークの方々なら、公式と同じくらいに浸透していることではないかと思います。
しかし、氏真を夢中にさせた蹴鞠とは、いったいどんなものなのでしょうか。氏真以外にも、魅せられてしまった人物はいるのでしょうか。
ちょっと気になる「蹴鞠」について見ていきましょう。
氏真が没頭した蹴鞠ってどんな遊び?
鞠を蹴る=蹴鞠なんだろうということは想像がつきますが、蹴鞠ってどんな風に遊ぶものだったのでしょうか。
蹴鞠は、600年代頃に中国から日本に伝来しました。日本では、鹿皮でできた鞠を一定の高さで蹴り続けて、その回数を競うものなんだそうです。
今で言えば、サッカーのリフティングみたいな感じなのでしょうか。4人、6人、8人のチーム戦と個人戦がありました。
中国ではまた少し違ったルールがあり、チームを作って「球門」というゴールに鞠を蹴りいれるような形です。こちらはよりサッカーに近いような感じがしますね。
平安時代には貴族の間で流行し、徐々に裾野を広げていきます。室町時代には、足利義満や義政が蹴鞠を好んだことで、武家のたしなみとして行われるようになりました。
この頃になると、これを家業とする家も現れます。難波家・飛鳥井家・御子左家などが代表です。氏真は、飛鳥井家の飛鳥井雅綱から蹴鞠の手ほどきを受けたと言われています。
しかし、織田信長が蹴鞠よりも相撲を奨励したため、武士の間では徐々に蹴鞠ブームは収束していったとも言われています。
一方、一般庶民たちは江戸時代になっても蹴鞠をしていたとも言われています。明治天皇の下賜金によって保存会が結成されたため、蹴鞠は現在も伝統行事として存続しています。
今川家のほかに、蹴鞠をたしなんだ戦国大名はいるの?
今川家のほかに蹴鞠について伝わっている大名は何人かいるんです。
長宗我部元親は、1574年(天正2年)に定めた「天正式目」の中で、蹴鞠は武士がたしなむべき技芸のひとつであると言及しています。元親自身が行ったという記述ではありませんが、このように言うなら、彼も蹴鞠を行ったと考えても良いのではないかと思います。
また、島津貴久・義久に仕えた上井覚兼(うわいかくけん)という人物は、蹴鞠の名手であったそうです。
彼の「上井覚兼日記」には、島津家では蹴鞠が盛んであるとの記述があります。勇猛な島津義久が蹴鞠をたしなんだと思うと、興味深い話です。
また、義久の息子・家久も、若いころは蹴鞠に没頭していたと伝わっています。
蹴鞠は当時の流行りだった?
氏真だけが蹴鞠大好きだったわけではありません。室町時代からの流れで、戦国大名の間には蹴鞠が浸透していたようです。
信長も例外ではなかったようです。彼は相撲を奨励したと言われていますが、蹴鞠も好きだったんですね。
太田牛一の「信長公記」によると、氏真が蹴鞠を良くするという話を聞いた信長は、氏真のほかに飛鳥井家などの蹴鞠の名手を招き、京都の相国寺で蹴鞠の会を催したそうです。
まとめ
こうして見てくると、蹴鞠はずいぶん歴史があって、多くの人に親しまれてきたものだということがわかりました。
氏真だけが夢中になっていたのではなかったんですね。彼には立派な才能があったわけです。
武将として必要な才能だったかどうかは疑問符がつきますが…現代に生きていたら、サッカー選手として開花していたかもしれませんね。