秋田美人のルーツは茨城!? 佐竹義宣が秋田に連れて行った人々とは
北東北、日本海側に位置する秋田県は、「秋田美人」「秋田小町」という言葉もある通り、美人が多い県と言われています。
そんなウワサの元には、戦国武将佐竹義宣の国替えが関係しているとの説があります。
左遷だった佐竹義宣の国替え
慶長五年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成率いる西軍の、天下分け目と言われる関ヶ原の合戦が行われました。
結果的には東軍が勝ち、徳川家康によって西軍にくみした武将たちの信賞必罰速やかに行われています。
西軍であった、常陸の国を治めていた佐竹義宣に、国替えの命が下ったのは慶長七年(1602年)の5月。
伏見屋敷で寛いでいるところに、領地没収と出羽の国秋田への転封の知らせが届きました。同じように西軍出会っても領地安堵の武将が多い中、義宣にとってみてはまさに「青天の霹靂」といったところでしょうか。
先祖以来5世紀という長い間住んでいた領地を追われた佐竹義宣は失意のうちに出羽の国へ向かったとされています。
秋田美人は、佐竹義宣が美人を水戸から秋田に連れて行った!?
ところで、義宣が向かった出羽は美人が多いと言われる秋田県。
秋田県に美人が多いと言われるようになったのは、実はこの佐竹義宣が転封の際、腹いせに故郷常陸の国から、美人をぜーんぶ連れてきてしまったからというウワサがあります。
そして、佐竹義宣の後に常陸の国水戸に入府した徳川頼房が、「美人がいない!」と文句を言ったら、今度は秋田にいた不美人を全部水戸に送りつけてきたと現代のフェミニストが聞いたらひっくり返ってしまうような話です。
実際のところは、佐竹義宣は転封の際、一族・家老のほかは譜代九十三騎、家臣数にして157名と、ごく少ない家臣しか随行させず、水戸に残った家臣たちも多かったと言います。
故郷常陸にも立ち寄らずに伏見から真っ直ぐ秋田に向かったと言われるので、ありえない俗説のようです。
秋田の出身の女性芸能人と茨城県出身の女性芸能人
それではこの際ですので、秋田県出身と茨城県出身の美人芸能人対決してみましょう。
佐々木希さん・加藤夏希さん・鳥居みゆきさん・藤あや子さん・桜田淳子さん・壇蜜さんが秋田県生まれの(違う県で育った人もなかにはいます)、美人芸能人です!
一方、栗山千明さん・白石美帆さん・永作博美さん・羽田美智子さん・鈴木奈々さん・城之内早苗さんが茨城出身の美人芸能人です!
どちらの県も、甲乙つけがたし!美人をたくさん輩出していると思います。

By: Kuruman
まとめ
当時の「美人」が、現代の美人の概念とはちょっと違うかもしれません。
秋田美人の説は、さまざまあるので佐竹義宣の転封が理由とは言い切れないのが事実のようですね!