石田三成への恩義によって、佐竹義宣は秋田へ転封された!?
常陸の国を長い間治め、徳川の天下になったのち出羽の国秋田の初代藩主になった、佐竹義宣。
豊臣秀吉亡き後、多くの武将たちの運命の決めた関ヶ原の合戦で、あいまいな立ち位置を取り続けた佐竹義宣はそのことを咎められ、領地没収、常陸の国54万石から出羽の国20万石に転封となってしまいました。
ではなぜ、西軍、東軍どっちつかずの位置にいたのでしょうか。
今回は、「律義者」と言われた佐竹義宣の石田三成との関係について書いていきたいと思います。
石田三成の斡旋があればこそ
佐竹家は、平安時代に栄華を誇った清和源氏新羅三郎義家の嫡流をくむ、常陸の国に800余年続いた由緒ある氏族です。
佐竹義宣の父は、戦国時代、鬼の佐竹と呼ばれ北条氏や白川氏と交戦していた佐竹義重であり、義重が信長と親交が深かったことが、やがて息子の佐竹義宣と豊臣秀吉、ひいては秀吉腹心の部下の石田三成との交流に繋がりました。
天正十八年(1590年)の小田原征伐では、秀吉により招集がかけられましたが、、その時佐竹義重と嫡子義宣は従兄の間柄でありながらかねてより確執のあった伊達政宗と白川で戦っていました。
しかし、石田三成の仲介を得て常陸の国の豪族たちや下野・下総の諸大名らと一緒に、小田原に馳せ参じることができました。
小田原攻めでは、佐竹氏は石田三成の元で戦い勝利し、小田原城は開城、北条氏はここに没落したのです。
その功績を買われ、佐竹氏は常陸の国の土地を与えられ、秀吉より拝しご朱印を元に常陸の国の統一を推し進めていくことになります。
三成か家康か 大いなる葛藤の末に選んだ恩義
慶長四年(1599年)前田利家が亡くなったのを契機に、豊臣秀吉の元にいた加藤清正や福島正則ら、武闘派が石田三成邸を襲撃する事件が起こりました。
知らせを受けた佐竹義宣はこの時、急ぎ駆けつけ、三成を女輿に乗せて逃がしたと言われています。
慶長二年(1597年)、義宣の従弟の宇都宮国綱が改易の憂き目にあいます。養子問題のこじれとも、太閤検地の虚偽申請が原因とも言われるその改易は、突然のもので、佐竹義宣にもその余波が来るであろうと思われたのですが、石田三成のとりなしによって佐竹氏は改易を免れた経緯がありました。
佐竹義宣には石田三成へ対する恩義と友情をあったとされます。
そして運命の関ヶ原の合戦のときがやってきます。
徳川方に付く方が有利だと、家康と親交のある父親も進言しましたし、家中でも、また義宣本人も、そう思っていたのかもしれません。
しかし、常陸の国を安堵してくれた豊臣秀吉への恩義、三成との友情を裏切ってまで、あからさまに徳川家康側東軍に付くこともできなかったのです。
徳川家康には敵意のないことを示す一方で、西軍の石田三成、上杉景勝とも通じ、どっちつかずの立ち位置になっていました。
佐竹義宣的にはあくまでも「中立」の立場を取ったつもりだったのですが、結果的には、勝利をおさめた徳川家康が、関ヶ原における曖昧な態度を良く思っていなかったようで、義宣にとっては思いの他厳しい信賞必罰が行われたことになります。
常陸の国54万石だったのを領地没収されされ、出羽の国秋田20万石の外様大名にされてしまいました。
石田三成は、敗走の末捕縛、斬首に処されています。
こうして、その後200余年続く徳川の世が始まったのです。
出羽の国秋田藩の初代藩主となった佐竹義宣は、家祖、清和源氏新羅三郎義光が後三年の役で活躍したその地を踏むことになったのは、運命の不思議と言えます。
義宣は久保田城を建築、以降佐竹氏は豊かな土地と領民を大切にし内政の安定に努めました。
幕末における佐竹氏
それから260年後の幕末。
佐竹義宣を初代とした佐竹家は十二代藩主義堯(よしたか)となっていました。
東北諸藩を巻き込んだ戊辰戦争では、佐幕派が奥羽越列藩同盟を作り、薩長軍と対抗していましたが、同盟参加に秋田藩は逡巡します。
逃げ腰の秋田藩は戊辰戦争では薩長軍に味方したと言われる事もありますが、260年前の転封の失意を鑑みると、徳川に対する真の忠誠はあったのでしょうか。
思えば、関ヶ原で敗軍となった諸大名は、西日本に多くありました。
その積年の恨みが明治維新の原動力になったのではないでしょうか。