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平将門と平清盛 平安時代を揺るがした二人の関係は親戚!?

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平安時代と言えばまず思い浮かぶのは和歌や香、雅な貴族の文化という方が多いのではないでしょうか。

実際、貴族は794年の平安京遷都から鎌倉幕府成立までの390年もの間政治、文化の中心にいました。

そんな貴族社会に強烈なショックを与えた二人の兵(つわもの)が存在します。

一人は承平の乱を起こした平将門、そしてもう一人は平家物語のキーマン平清盛。同じ名字だし親戚かな?と思うこの二人。二人の関係を探ってみたいと思います。

平氏の発祥

そもそも平氏の発祥は、平安京に都を遷した桓武天皇の第三皇子、葛原親王の孫高望王が寛平元年(889年)に宇多天皇の勅命により平の姓を与えられ、臣籍降下した事に始まります。

平安時代の天皇は安定した皇位継承の為に多くの皇子をもうけましたが、実際に天皇になれるのはほんの一部の皇子だけ。残った皇子が財政を圧迫する要因になってしまっていました。

高望王の祖父にあたる桓武天皇にも沢山の皇子や皇女がいて、なんと100名あまりの皇族を臣籍降下させたと言われています。

さて、皇族から臣下の身になった高望王は昌泰元年(898年)に上総介に任じられます。現在の千葉県、平安京からは遠く離れた、当時で言えば未開の部分も多い土地です。

当時の国司は自分は任地に赴かない遙任の制度を利用する者も多かったのですが、遠い坂東の地に何らかの可能性を感じたのかもしれません。

高望王あらため平高望は長男国香、次男良兼、三男良将らを伴って任地へと赴きます。そして在地の有力者の娘を息子達を結婚させ、土地の開墾に努めました。

これが坂東平氏、もしくは伊勢平氏などとも呼ばれる高望王流桓武平氏の始まりです。

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平将門と承平の乱

平将門はこの高望王の三男良将の子として生まれました。生年は不詳、下総の国の生まれと言われています。

承平5年(935年)2月、土地の事で伯父達と争っていた将門は、伯父の一人である国香を殺してしまいます。この争いが大きくなってしまい、とうとう朝廷にもその報が届きます。

朝廷が将門を討つように命令を出すととんでもない事態が起こりました。将門が新皇を名乗り、坂東の独立を宣言してしまったのです。しかもこの乱は当時最も恐れられた菅原道真のせいだ、などと噂も飛び交い朝廷は正にパニック状態だったでしょう。

結局は新皇を名乗ってたったの二か月で将門の乱は終結しますが、この事件は平氏という存在を朝廷に刻みつけるには十分な事件でした。

そして、この承平の乱で将門と戦ったのが国香の子供、つまり将門にとっては従兄弟にあたる貞盛でした。この貞盛が坂東平氏を発展させる本流になっていきます。

貞盛の血筋は清盛に至って繁栄を迎えた

それから200年近くが過ぎた1118年、平安京にて平清盛が生を受けます。父の忠盛は白川院の北面の武士として仕えていました。この忠盛こそ貞盛の5代後の子孫にあたります。

貞盛とその子維衡は将門の乱の功績によって伊勢に領地を広げ、忠盛ら子孫が都で活躍する基盤を作りました。その御曹司として生まれた平清盛の人生は平氏の絶頂期でした。

保元・平治の乱という平安末期の大乱で活躍した清盛は昇進を重ね、仁安二年(1167年)にはとうとう武家出身で初めての従一位、太政大臣の位に上り詰めます。

娘徳子を高倉天皇の后として入内させ、その息子が安徳天皇として即位すると外戚にもなります。清盛の出世によって一族も出世し、一門の住む六波羅は「綺羅充満して堂上花のごとし、軒騎群集して門前市をなす」と言われる華やかな様子だったと言われています。

その繁栄も清盛一代で途絶えてしまいますが、彼こそ平家本流を最も栄えさせた人物と言っていいでしょう。

将門と清盛を繋ぐ高望王の血

平安時代に武士の存在を刻み続けた、平将門と平清盛。彼らは同じ高望王の子孫です。関係としては従兄弟のひ孫の孫とかなりの遠縁です。二人とも貴族の社会に対して武士を中心とした新しい社会を作ろうとし、志半ばに倒れた革命児でした。

皇子から臣下になり、遠い坂東に新天地を求めた高望王の血がそうさせたのでしょうか。

最後に一つ、二人の共通点をお話しします。将門も清盛も朝廷の敵として散々な悪人扱いをされています。しかし、『将門記』によれば将門は「素より侘人を済けて気を述ぶ。便なき者を顧みて力を託く」とあり、困っている人を助け、頼られれば協力を惜しまない人望のある人物だったと記されています。

また、清盛も中世の説話集『十訓抄』に「清盛は物静かな人で、身分の低い人でもその者の縁者の前では一人の人格を持った人間として取り扱ったからその者はたいそう面目をほどこした」などと記されるように、人を大事にする人物だったと語られています。時代の革命児であった為に憎まれ、悪人とされた二人ですが、その真実の顔は人情に厚く気持ちの良い、今であれば理想の上司のような人間だったのではないでしょうか。

 

Mana

投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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