戦国時代一の知将 真田昌幸の晩年の生活はうつ病だった!?
真田昌幸といえば、真田幸村の父、そして戦国時代きっての知将・謀将として知られています。
華々しい活躍がありながら、最期は蟄居先での無念の死。
真田昌幸の生涯がどんな物だったかを見ていきましょう。
真田父子の袂を分かった犬伏の別れ
関ヶ原の戦いのきっかけともなった会津征伐に真田昌幸は初め家康に従い従軍していました。
しかし、下野犬伏(栃木県佐野市)に着陣した際、昌幸の陣に石田三成からの密使が到着し、ともに家康を倒そうと求めてきます。
ここでの問題は彼の子供達でした。信之の妻は徳川家の四天王、本多忠勝の娘:小松姫でしたので、ここまで来て引き返しては不義と責められると反対します。
ですが、昌幸の娘は三成の義兄宇田頼次に嫁いでいて、加えて幸村の妻は三成の盟友:大谷吉継の娘でした。
結局この姻戚関係により、昌幸・幸村父子は三成を見捨てるわけにはいかず、信之は徳川に背くことが出来ずに「犬伏の別れ」と後に呼ばれるものとなりました。
一説には東軍と西軍どちらが負けても真田家が存続する為の策だったとも言われています。
西軍につく事を決意した真田昌幸と真田幸村は上田へと戻りますが、途中沼田城で一泊する予定でした。
しかし、留守を守る信之の妻:小松姫は二人が西軍についたと知っており、入城を拒否します。このとき、昌幸は「せめて孫の顔だけは見せてくれ」と小松殿に頼み、城壁越しに孫の顔を見て上田へ戻っていったと言われています。
徳川秀忠の恨みを大いに買った上田合戦
上田城に戻った真田昌幸・幸村父子は徳川軍本隊であった徳川秀忠が率いる軍と戦闘を交えます。ここで真田昌幸の知将としての才能が思う存分に発揮される事となります。
地形を生かし、少数に見せかけての伏兵作戦や奇襲攻撃は秀忠の軍を大いに苦しめました。
上田城の守りが思いの他強固であった事に驚いた秀忠はついに上田城攻略を諦めて美濃に向かいますが、上田での戦いの長期化や悪天候で関が原の本戦に遅れてしまうという大失態を犯してしまいます。
徳川家康は激怒し、暫く秀忠に対面を許さなかったとされています。この事が秀忠のプライドを大きく傷つけたのは確かでしょう。
関ヶ原の戦いの後、真田昌幸・幸村父子には死罪が言い渡されますが、信之や小松殿の父:本多忠勝の嘆願で高野山への蟄居にとどめられます。袂は分かってはいましたが、息子夫婦によって命は救われたのです。
九度山での生活
高野山で昌幸は1里ほど麓の細川という場所で暮らしていました。
しかし、間もなく配所は九度山に変わります。昌幸・幸村の屋敷は別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の罪人よりはかなり厚遇されていたようです。
昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助に頼っていましたが、生活費には困窮し、信之を始め各所に金策を願って出した手紙が残されています。
また、行動には監視がついていましたが、紀ノ川で釣りを楽しんだり、京都や和歌山へ自由に行く事も出来たりしたことから、行動の自由が一定程度許されていたようです。
しかし、九度山での生活は昌幸の気力を奪い、晩年は病気がちだったと言われています。
現代で言うところのうつ病のような状態だったのかもしれませんね。
そして、慶長16年(1611年)6月4日、真田昌幸は結局許される事なく、九度山で病死しました。
真田幸村に受け継がれた昌幸の志
徳川秀忠を苦しめ、家康にすらも恐れられた知将:真田昌幸。華々しい上田合戦の後、彼は九度山でひっそりと生涯を終えました。
しかし、彼の戦術は息子:幸村に伝えられ、大坂の役での活躍に繋がっていきます。真田が豊臣についたと知った家康は「真田とは父か子か」と聞き、幸村の名を聞くと安心したと言いますが、実際に戦ってみると真田家伝統の戦術に多いに苦しめられ、認識を改めました。
戦国時代一の知将:真田昌幸は死してもなお家康を脅かす存在だったのです。