山南敬助が愛した女性 明里とはどんな人物だった!?
世に名高い新撰組の隊士であった山南敬助。
彼は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長の地位についていましたが、後に脱走をし切腹を言い渡されています。
そんな彼には明里という想い人がいたとされますが、その明里という人物とはどんな人物だったのでしょうか。
山南敬助の経歴
1833年(天保4年)生まれた山南敬助は、江戸で小野派一刀流の免許皆伝となり、近藤勇の天然理心流剣道道場・試衛館に他流試合を申し込みます。
そこで近藤勇に敗れましたが、近藤の人柄などに魅かれ、以降近藤や試衛館の門人と行動を共にすることになりました。
1863年(文久3年)、清河八郎が将軍警護と尊王攘夷目的に浪士組を結成、山南も近藤とともにこれに参加します。
浪士組において山南・近藤は、芹沢鴨らとの主導権争いの末、新撰組を結成し、山南は第3の地位である総長の座に着きます。
しかし、これ以降の脱走に至るまでの山南の詳しい記録は残っていません。
脱走 そして切腹へ
1865年(元治2年)、山南は「江戸へ行く」と言い残して行方をくらませました。
脱走者は新撰組の隊規によると「士道府覚悟」とされ、死罪にあたります。
近藤らは山南のこうした行動を脱走ととらえ、すぐに山南が弟の様に可愛がっていた沖田総司に後を追わせます。
大津で沖田に捕えられた山南は新撰組屯所に連れ戻され、1865年2月23日に切腹し、果てました。
山南の想い人 明里
京都で芸妓をしていた明里(あけさと)は山南敬助の馴染みでした。年の頃は22、3で島原から身を引いて、里で暮らしていました。
1865年、山南が切腹を言い渡されて屯所の壬生前川家で控えていたところ、明里が山南の名を呼びながら前川家の西の窓を叩きました。
これに気づいた山南は格子戸から顔を出すと、明里は格子を掴んで泣き崩れました。
2~30分程言葉を交わしていると、人が来て明里を連れていこうとするが、明里は格子を掴んで話しませんでした。
それを見た山南は格子戸を閉め、ほどなくして切腹してしまいました。
これは「格子戸の別れ」という有名な場面です。
山南と明里の様子を見ていた、八木為三郎(新撰組が屯所にしていた八木家の子息)の証言を元に、昭和の作家:子母澤寛が書いた『新撰組遺聞』の中の一節です。
しかし、新撰組の幹部であった永倉新八の手記である『新撰組顛末記』や『浪士文久報国記事』には、明里についての一切の記述がないため、子母澤の創作の可能性が高いと考えられています。
脱走の動機は
山南の脱走の動機については諸説ありますが、有力なのは新撰組の屯所移転問題です。
近藤らは佐幕色が濃く、勤王派の長州藩毛利家とも近い関係にある西本願寺に屯所を移して監視をするという考えを持ちました。
勤王派であった山南はこれに猛反発しましたが、近藤や土方は取り合わず、これによって山南は新撰組との決別を決意したと言います。
しかし、山南自身が頑として理由を述べなかったことから、はっきりとしたことはわかっていません。