慶長5年(1600)9月15日、天下分け目の関ヶ原合戦が行われ、徳川家康率いる東軍と石田三成が主導する西軍とが激突しました。
しかし、この戦いに遅刻してしまったために家康に激しく叱られてしまった武将がいました。
それが家康の三男・秀忠です。
なぜ、秀忠はあろうことか関ヶ原に遅刻してしまったのでしょうか。
若気の至り?
慶長5年(1600)7月25日、下野国(現在の栃木県)小山で開かれた会議で石田三成らと対決することが決定すると、家康に味方する諸将は東海道を通って西へ向かいました。
秀忠も家康に与えられた3万8000もの兵とともに中山道を通って上方に向かっていて、これが徳川軍の本隊でした。
しかし、秀忠はまっすぐ西に向かわず、途中で小諸城に立ち寄りました。小諸城というのは武田信玄の築城した城で、このときは東軍についた仙石秀久が城主となっていました。
秀忠はこの城を拠点に、真田昌幸・幸村(信繁)父子のいる上田城を落とそうと考えたのです。
そこには、「大軍で攻めれば簡単に落ちるだろう」「包囲すればすぐに降伏してくるだろう」といった軽い気持ちがあったといわれています。
このとき秀忠22歳。しかも、実質的に初陣だったということですから、多くの兵を引き連れて、気持ちが大きくなってしまっていたのかもしれません。
上田城落城へのこだわり
なぜ秀忠が石田三成という敵を前にしながらわざわざ上田城、さらには真田昌幸・幸村父子にこだわったかといえば、そこには天正13年(1585)の第一次上田合戦での敗北がありました。
このとき、家康は7000とも8000ともいわれる大軍を上田城に向かわせたにもかかわらず、たった2000の真田軍相手に苦戦し撤退を余儀なくされてしまったのです。
この屈辱を晴らしたいという思いがこの時上田城に秀忠を向かわせたと考えられます。
こうした点から、この時の第二次上田合戦は秀忠の血気逸った行動ではなく、家康の命令によるものとも考えられているようです。
知謀・昌幸の策略にはまる
昌幸は武田信玄に「わが眼」と認められ、秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた謀将です。その目的のためなら手段を選ばない昌幸の策略が、真田家を戦国大名として躍進させたといっても過言ではありません。
関ヶ原合戦のとき昌幸はすでに53歳。
22歳の若き秀忠は昌幸の策略に見事はまってしまいます。
小諸城に入った秀忠は昌幸の嫡男・信幸と本多忠政を「降伏勧告」の使者として上田城に送りました。すると昌幸はすんなりとこれを受け入れたのです。
秀忠はやはり昌幸といえども3万8000もの兵の前に怖気づいたかと内心得意げだったに違いありません。
しかし、これこそ昌幸の策略だったのです。
時間稼ぎが目的
なぜ昌幸がすんなりと降伏を受け入れたかといえば、その目的は時間稼ぎでした。
昌幸はこの時すでに東西両軍の決戦城は濃尾平野になるであろうことを読んでいました。その上で、家康は城攻めよりも野戦が得意なので、秀忠軍をここで足止めして、野戦を遅らせればその間に三成は大垣城に籠り、寝返りを待つことができると考えたのです。
そのため、降伏を約束した昌幸はなかなか秀忠のいる本陣にあいさつに行きませんでした。
しびれを切らした秀忠が再び仙石秀久を使わしたところ、昌幸は今度は「西軍につく」と言いだしたのです。
秀久は再び降伏を勧告する使者を派遣しましたが、昌幸が再びこれを受けることはありませんでした。
こうして秀忠と昌幸は直接対決へと移行し、徳川軍は昌幸の巧みな戦略の前に多くの犠牲者を出して敗北してしまったのです。
さらにこうしたやり取りにより結局、秀忠率いる徳川軍の本隊は上田城に7日間も足止めされ、関ヶ原決戦に遅刻する羽目になってしまいました。
勝ったからいいものの
本隊不在でありながらも東軍は関ヶ原の戦いに見事勝利を収めることができました。
しかし、秀忠は家康に激しく叱られ、合戦後の論功行賞では豊臣系諸侯に没収地の大半が与えられることとなりました。
そこには遅刻したこと以上に、3万8000もの兵を率いながらわずか5000の真田軍に敗北したことへの叱責が大きかったように思います。
敗北した上に遅刻までした秀忠は、三方ヶ原で血気逸って敗北してしまった家康の「顰像」と同じ顔をしていたのではないでしょうか。
親子2代に渡って若い時に挫折と屈辱を味わうこととなったのですから、その点では血は争えないと言えるかもしれませんね。