教科書に書かれない戦国時代の裏側 奴隷貿易の実態
戦になれば捕虜はつきものです。特に世界史を学んだ場合には、奴隷貿易という言葉を頻繁に目にします。
では、日本はどうだったのでしょうか。奴隷という存在はあったのでしょうか。
織田信長には黒人奴隷の家来・弥助がいたと言われていますよね。
それでは、日本から異国へ奴隷が連れ出されたりはしていたのでしょうか。
時代の暗部になりうる部分を探ってみようと思います。
戦国時代に奴隷貿易が行われていたという話の真偽
戦国時代には、多くの戦国大名の元で「乱取り」や「人取り」という略奪と奴隷狩りが行われていました。
島津氏や伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉など、有力大名ならば当たり前のことだったのです。
そして、戦に随行した商人によって、略奪品や人身売買が日常的に行われました。国内であれば、奴隷は召使いなどにしました。
また、連れ帰った奴隷を相手方の大名が買い戻すことで発生する金銭が、収入の一部になったのです。
ポルトガル商人が入ってきたことで、奴隷の売り先は海外にも広がりました。
しかし、イエズス会がこれを禁止するように訴えを起こし、やがて1587年(天正15年)に豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」の一環として、人身売買停止令も発されたのです。
この事は、当時奴隷貿易が行われていたことの証明にもなります。
奴隷として売られた人たちの行き先
戦の中で奴隷とされた人々は、男女を問いませんでした。
貿易の窓口となった商人や九州大名からポルトガル商人の手に渡り、当時奴隷貿易の中心でもあった東南アジアやマカオへと売られていったのです。
男性は、ヨーロッパ諸国の植民地での戦闘員にさせられてました。インドのゴアでは、日本人兵の働きが伝えられています。
女性はというと、ゴアやメキシコのアカプルコを経由してヨーロッパへと売られていった人々もいました。
日本人女性の奴隷はそちらでも珍重されていたそうです。
海外へ売られていった奴隷の人数
奴隷として海外へ売られていった人たちの数がどれくらいに達するのか、はっきりとした数字は分かりません。
ただ、1582年(天正10年)にヨーロッパへ派遣された天正遣欧少年使節の報告書に、彼らが目にした日本人の女性奴隷の話があり、「行く先々で日本人女性が目につき、その数はヨーロッパ各地で50万という」とあるそうです。
この数に関しては、多すぎるという説もありますが、いずれにせよ多くの日本人が海外へと売られていたことは事実のようです。
まとめ
奴隷を含む南蛮貿易は非常に盛んでしたが、徳川家康によって朱印状が必要な朱印船貿易に転じ、やがて鎖国に突入すると、日本人を奴隷として輸出することはなくなっていきました。
また、東南アジアやヨーロッパだけでなく、南米の各地にも日本人奴隷がいたのではないかという話もあります。
言葉も風俗も違う異国の地に売られ、物同然に扱われた人たちの気持ちを思うと、胸がつぶれる思いです。
武将同士の戦いにロマンを感じるだけではなく、その裏側に何があったかを知ることも、歴史好きには必要なことなんですね。