新撰組好きの方なら、伊東甲子太郎(いとう かしたろう)という名前を聞いた事がありますよね。
新撰組の参謀及び文学師範だった伊東は、坂本龍馬に「新撰組に狙われている」と告げたとも、逆に龍馬暗殺の黒幕だとも言われています。
伊東が龍馬に対してとった行動はどちらが正しいのでしょうか?
坂本龍馬暗殺事件の黒幕だった!?
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都河原町近江屋井口新助邸において、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される事件がおきました。
これが有名な「近江屋事件」です。
実行犯は誰だったのかは諸説あります。薩摩藩陰謀説、京都見廻り組説(現在ではこれが最も有力)、果てはフリーメイソン陰謀説まであります。
しかし、当初は新撰組の関与が強く疑われました。
佐幕派だった新撰組からすると、大政奉還を実現した坂本龍馬は大敵だったのでしょう。
実際には新撰組の犯行ではなかったにしろ、新撰組も龍馬の暗殺を計画していたのかもしれません。
龍馬に忠告した伊東甲子太郎
伊東甲子太郎は新撰組でありながら、勤王の志を持っていました。
佐幕派であった新撰組との考えと異なるため、密かに新撰組離脱を狙っていました。
そして、慶応3年3月20日、薩摩藩の監視と御陵警備任務を口実に新撰組を離脱しました。
新撰組を離脱した後は「御陵衛士」という隊を結成し、時代の中心で活躍するために、時代の寵児である坂本龍馬の側近・中岡慎太郎に近づき「新撰組に狙われているので、土佐藩邸に移った方がいいですよ」と忠告をしました。
伊東の忠告を無視した坂本龍馬
中岡慎太郎は伊東の忠告を龍馬に告げましたが、龍馬はこれを聞き入れませんでした。
「生死は天命にある。それだけのことだ。」
龍馬からしてみれば、つい最近まで佐幕派の新撰組で行動していた者が突然手のひらを返して、勤王ぶるところが気に食わなかったのかもしれません。
伊東甲子太郎の黒幕説
自分のせっかくの忠告を反故にされて、いたくプライドを傷つけられた伊東。
龍馬暗殺犯には諸説あると先述しましたが、恥辱を晴らし、薩摩藩との知遇を得るためとして伊東が龍馬を暗殺したのではないかという説もあります。
坂本と伊東は旧知の仲だった!?
伊東甲子太郎と坂本龍馬は共に北辰一刀流剣術に入門していました。
同じ流派に所属していたので、もしかすると面識はあったのかもしれません。
しかし、伊東は江戸深川中川町(現・東京江東区)にあった伊東道場に、龍馬は江戸桶町八重洲(現・東京中央区)にあった桶町千葉道場(通称「小千葉道場」)に通っていたため、頻繁に会っていたということはなかったでしょう。
ただ、伊東が中岡に接近した時には、龍馬は大政奉還を成し遂げており、その名は天下に轟いていました。
もし若い頃からの知縁がなくとも、伊東が龍馬を知っていても不思議ではありませんね。