坂本龍馬の本名は「龍馬」じゃなかった!?
幕末の志士・坂本龍馬。
誰もが知る「龍馬」という名前の由来は、龍馬の母・幸が龍馬の生まれる前日に夢に「龍」が出てきたことと、生まれてきた龍馬の背中に「馬」のたてがみのような毛が生えていたことから「龍馬」と名付けられたと言われています。
よく考えてみればなかなかユニークな名前ですが、「本名」は「龍馬」ではなく「直柔(なおなり)」というのをご存知でしょうか。
では「龍馬」というのは一体何なのでしょうか。
諱と字
「直柔」というのは「諱(いみな)」と呼ばれる名前です。
諱というのは「忌み名」のことで、「真名」ともいいます。英語では「True name」、「真の名前」つまりは「本名」を表します。
「忌み」というのは「口に出すことが憚られる」ということを示していて、日常的に呼ばれることはありませんでした。呼んでいいのは親と主君だけに許されていて、それ以外の人が呼ぶと「無礼」にあたると考えられていたそうです。
そのため日常呼ぶ名前=通称として用いられていたのが「字(あざな)」です。現在も「あだな」として残っているものです。
字と通称が別の人がいたりしますので、完全に同じということではありません。さらにややこしいことに字も通称も好きなだけ改名することが可能でした。
要するに当時の親は生まれてくるわが子に「字」をつけてあげることができたということになります。
「直柔」の由来
龍馬の生まれた坂本家では6代目以降、男子は代々「直」の字を「通り名」として諱としてきました。
9代目に当たる龍馬の父は「直足」といい、それを継いだ10代目の兄は「直方」といいます。
諱というのはその人の生涯の幸福を祈って良い音と意味の漢字を選んでつけてもらうのが通常のようです。
ところが龍馬の場合、少し違った点があります。諱を一度改名しているのです。
龍馬は当初「直陰(なおかげ)」を諱としていました。たくさん残されている龍馬の手紙のうち、「直陰」と署名したものが4通だけ残っているそうです。
しかし、1866年10月5日の手紙に「直柔(なおなり)」と署名されています。これを期に9通の手紙に「直柔」の署名が見られます。
なぜ龍馬は諱を改名したのでしょうか。
その理由として寺田屋事件があるという説があります。寺田屋事件が起こったのは1866年3月9日のことでした。
龍馬はこの事件で両手の親指と左手の人差し指を負傷しています。このことで寺田屋の主人であるお登勢は自責の念を抱き、法華経の「自我偈」の中の「質直意柔軟 柔和質直者」という一節から諱を「直柔」に改名するように勧めたという説があるそうです。
他にも龍馬が「陰」という字を嫌って改名したという説もあります。「柔」には坂本家初代・順信の「順」や「陰」と同じ意味を持つ漢字であるということも改名の理由として考えられているようです。
理由についてはっきりと記されたものがないのでわかりませんが、何か大きな理由があったのでしょう。
どんな時に諱は改名された?
諱の改名のほとんどは「偏諱」が理由でした。
偏諱というのは、目上の人の諱の字を自分の諱として用いることを避けることを表しています。
江戸時代にも5代将軍・綱吉が娘・鶴姫を溺愛したため、「鶴」を諱として用いることを禁じたという例があります。そのため、浮世草子作家として知られている井原西鶴は井原西「鵬」と改名したそうです。
そうすると龍馬の改名も偏諱かとも考えられそうですが、龍馬のころの土佐藩主・山内容堂の諱は豊信ですし、そのあとを継いだのは豊範、そのころの将軍・家茂の諱は慶福、そのあとを継いだのが慶喜ですから、偏諱でもなさそうです。
維新志士たちの諱
以下、幕末の維新志士たちの諱です。
- 桂小五郎→孝允 これは有名ですね。
- 吉田松陰→矩方
- 久坂玄瑞→通武
- 高杉晋作→春風 晋作は字を暢夫(ちょうふ)といいます。
- 佐久間象山→国忠
- 中岡慎太郎→道正
- 西郷隆盛→隆永、のちに武雄、隆盛
- 大久保利通→利済、のちに利通
- 勝海舟→義邦、のちに安芳
こうして見てみると龍馬が影響を受けた薩摩藩士の西郷や大久保、さらに師と仰いだ勝などが諱を改名していることがわかります。龍馬の改名にも、もしかしたら彼らの影響もあったのかもしれませんね。桂は諱こそ改名していませんが、それこそコロコロと通称を変えていましたし。

By: Bytemarks
諱の改名は自分自身の「洗濯」だった?
諱というのは、「本当の名前を知られると呪いをかけることができてしまう」から簡単に教えてはいけないという側面があったともいわれています。
そんな諱を変えるというのは自分自身を一新する気分だったのではないでしょうか。
龍馬の手紙に「日本を今一度洗濯し候」というのがありますが、まさに自分を「洗濯」するようなものだったのかもしれません。
1866年、諱を一新した龍馬はどんな新しい自分を目指していたのでしょう。