坂本龍馬にとって勝海舟は尊敬する師であり、勝にとっても龍馬は最愛の愛弟子だったといわれています。
龍馬は姉・乙女への手紙の中で海舟のことを「日本第一の人」と称賛しています。
このように師弟の絆で結ばれた二人でしたが、龍馬暗殺の黒幕は勝海舟だったという説があるのをご存知でしょうか。
なぜ、愛弟子・龍馬を海舟が暗殺しなければならなかったのでしょうか?
龍馬の描いた新政府
慶応3年(1867)、15代将軍・徳川慶喜は京都の二条城において大政奉還を宣言します。政権を天皇に還す、つまり幕府の事実上の崩壊を意味しました。
慶喜が大政奉還を決意する背景には、坂本龍馬ら土佐藩の動きがありました。
大政奉還は当時武力による討幕の考えが高まる中で、幕府が朝廷に政権を還すことで天皇のもとに権力を一つにまとめ、新たに議会を設けて国是を決定するという、動乱を避け平和裏に状況を打開する構想でした。
龍馬はこれに際し、船中八策を簡略化した「新政府綱領八策」を残しています。そこには新政府の構想を8つの箇条書きで記してあるのですが、次の一文が問題です。
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
この「○○○」には新政府の盟主、つまりリーダーとなる人物の名前が入るわけですが、龍馬はこれを明言せず、選挙により選出されるべきとしていたとされてきました。
龍馬は「○○○」を決めていた
しかし、龍馬はこの「○○○」を誰にするか決めていたというのです。そしてそれが海舟の逆鱗に触れることになります。
幕末・維新について記した『史談会速記録』には龍馬が大政奉還の翌日尾崎三郎とともに練り上げた新政府の人事案『新官制擬定書』が記録されています。
それによると新政府綱領八策にあった「盟主」にあたる内大臣には江戸幕府将軍「徳川慶喜」の名前が挙げられていたのです。
さらには龍馬の名前が参議の欄にあるのに対し、海舟の名前はどこにも記されていませんでした。
「○○○」は「慶喜公」だったのです。
龍馬を暗殺する理由
もし、新政府のリーダーが将軍・徳川慶喜であれば、結局は何も変わらない。そのことが海舟と龍馬の対立を招くことになったと考えられています。
志士たちと親しくし、政治に大きな影響力を持ち始めていた龍馬をこのまま生かしておけば、新たな世など生まれない。そんな思いを抱いたのでしょう。
確かにこの理由であれば龍馬があのタイミングで暗殺された理由もうなづける気がします。
しかしながら、こうした思いは『新官制擬定書』を知っていた人物なら誰もが抱きうる考えではないでしょうか。
なぜ黒幕として海舟の名前が挙がるのか、それにはもう一つ理由があります。
勝と実行犯とのつながり
海舟が黒幕とされるもう一つの理由は、実行犯として現在もっとも有力視されている今井信郎とのつながりです。
今井信郎と海舟の共通点は二人とも直心影流の免許皆伝で、講武所に勤めていたことです。
講武所とは幕末に幕府が設置した武芸訓練機関で、剣術だけでなく砲術・弓術・槍術・柔術・砲術も学ぶことができました。
各部門には師範役が1名ずつ、その下に教授方がおかれました。
1861年に海舟は講武所の砲術師範役になっており、ちょうど同じ時期に今井も講武所の剣術師範代を勤めています。
このことから二人は古くからの知り合いだったとし、龍馬の暗殺を今井に頼んだと考えられているようです。
真相は
もちろん、真相は闇に葬られており、はっきりとはしないのですが、今回の勝海舟黒幕説でもっとも興味深いのはその理由とされた『新官制擬定書』です。
実行犯が見廻組であるとすればそのバックには幕府がいると考えるのが普通でしょう。
しかし、そのトップである慶喜が納得した上で行われた大政奉還に対し、龍馬を敵として暗殺するのはおかしな気がしますし、しかも大政奉還後ではもはや手遅れです。そうした点から幕府黒幕説には疑問が残っていました。
しかし、今回示された『新官制擬定書』が本当であり、龍馬が新政府のリーダーとして慶喜を考えていたのであれば、やはり黒幕に幕府がいる可能性はかなり低くなったと思います。
新政府のリーダーとして慶喜がたつという考えは、そもそも慶喜の考えと全くおなじなのですから。
であれば、龍馬暗殺の理由は、龍馬の存在が新政府設立にとって障害となると考えた維新派の人々であると考えられるのではないでしょうか。
しかしながら、同時期に講武所に勤めていたからといっても、身分も違えば砲術と剣術で部門も違うわけで、二人が暗殺というデリケートな問題を共有できるほどの仲だったかは、推測の域を出ません。
龍馬暗殺の理由はともかく、その黒幕が勝海舟であるかはもう少し議論されなければいけない気がします。