同じ土佐藩(現在の高知県)出身の坂本龍馬と板垣退助。
この二人は坂本龍馬が1836年1月3日生まれ、板垣退助が1837年5月21日生まれと歳も近いのですが、接点がなかったと言われています。
何故、この土佐が生んだ2人に接点がなかったのか見ていきましょう。
土佐藩における身分制度
坂本龍馬と板垣退助の生まれた土佐藩は、同じ武士でも上士、平士、郷士、下士に分けられ身分差別が激しかったことで知られます。日傘や足袋や下駄の着用は上士にしか認められなかったなど、その差別は多岐に渡っています。
坂本龍馬は1836年、土佐郷士株をもつ裕福な商家に生まれました。一方板垣退助は上士の嫡男として1837年に生まれました。
居住地も身分によって決められていたため、裕福とはいえ郷士出身の坂本龍馬と上士出身の板垣退助は、同じ土佐藩に住んでいた頃にもありませんでした。
江戸の坂本、土佐の板垣
1853年、坂本龍馬は剣術修行のため1年間の江戸遊学を藩に申し出て、許可されています。龍馬が江戸で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリーが浦賀に来航します。
1854年に龍馬は剣術修行を終えて土佐に帰郷しました。しかし、1856年再度の江戸への剣術修行の許可を得て1年間江戸へ向かいました。
一方板垣退助は龍馬が二度目の江戸遊学に向かった1856年、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)への禁足を命じられて神田村に蟄居していました。この時板垣は身分の上下に関わらず色んな人との関わりを持つことになります。
土佐(後に江戸)の坂本、江戸の板垣
1861年、土佐に戻っていた坂本龍馬は土佐藩永福寺で起こった刃傷事件に郷士側として参加しています。この事件で上士と郷士の対立が深まりました。また龍馬は武市半平太が率いる「土佐勤王党」に参加。尊王攘夷を唱え、1862年京都に赴き、薩摩藩の勤王義挙に参加するべく脱藩を試みました。
脱藩とは藩籍を抜けて一方的に主従関係の拘束から抜け出すことであり、脱藩者は藩内では罪人として扱われてしまいます。
1862年龍馬は江戸に到着。勝海舟と出会った龍馬は勝を「日本第一の人物」と称し心腹しています。
その時、板垣退助は江戸留守居兼軍備御用を命じられ、1861年11月21日に高知を出て江戸に向かいます。
そして、1862年、山内容堂の御前において尊王攘夷を唱えます。さらに翌1863年1月15日には、容堂の本陣に勝海舟を招き、それまで接点はなかったものの同じ土佐藩士である坂本龍馬の脱藩の赦免について協議をします。これにより、同年2月25日には龍馬の脱藩の罪は赦免されました。
近江屋事件で暗殺された坂本、その時板垣は
その後も坂本龍馬と板垣退助は共通の知人が幾人もいながらも(中岡慎太郎など)、お互いに顔を合わせることがないままでした。
そして1867年、かの有名な近江屋事件にて中岡慎太郎とともに襲撃されて命を落としました。享年33歳(満31歳)。
その頃、板垣退助は1867年の2月に水戸浪士の二人を江戸の土佐藩邸に匿います。
そして、10月匿っていた水戸浪士を薩摩藩邸に移しています。また、薩摩と密に交流をもち、武力倒幕の準備を進めていました。さらに翌1868年に勃発した戊辰戦争において土佐勤王党の流れをくむ隊士たちを率いて勝利に貢献しています。
こうして坂本龍馬と板垣退助は生前面識のないまま、龍馬の死をもって二度と面会の機会を逃してしまいました。
しかし、その志、目指すところは同じだった二人。もし龍馬が生きていて面会する機会があったらお互いの力になれる関係になっていたかもしれませんね。