関ヶ原の戦いに毛利輝元は何故、参戦しなかった?
毛利輝元が、大坂城に居ながら関ヶ原の戦いに出陣しなかったことは、よくご存知の方が多いことでしょう。
このことは、輝元が「無能」と呼ばれる大きなきっかけになってしまいました。
それでは、どうして輝元は出陣しなかったのでしょうか?もし、出陣していたら、戦況は変わったのでしょうか?
この辺を考えていきたいと思います。
関ヶ原の戦いで出陣しなかったわけ
関ヶ原の戦いにおいて、輝元は西軍の総大将として大坂城に入りました。
本戦が始まると、西軍は奮闘し、何とか踏みとどまっています。そこで、石田三成は総大将の輝元に何度も出陣を要請しました。これで輝元が来れば勝てる!…はずでしたが、輝元は、動きませんでした。
なぜ、彼は動かなかったのでしょう?伝わっている説はいくつかあります。
増田長盛の内通
ひとつは、共に大坂城にいる五奉行の一人・増田長盛(ますだながもり)が、東軍に内通しているという噂が立ったためと言われています。彼は三成の挙兵を家康に知らせたりしており、関ヶ原の戦いの後には出家し家康に謝罪、改易されています。
たしかに、噂(当時)とはいえ、あろうことか五奉行の一人がそんなことになっていると考えたら、出撃は困難だったかもしれません。
淀殿の反対
もうひとつは、豊臣秀頼の母:淀殿に関する話です。三成は、輝元と共に秀頼の出陣も要請していたのですが、淀殿の反対にあって果たせなかったといいます。もし、淀殿が反対しなかったら、輝元も秀頼と共に出撃していましたよね。
それに、輝元にはすでに有能な叔父二人(吉川元春・小早川隆景)がいなかったわけですし、背中を押してくれる存在がいなかったということも、出陣しなかった理由のひとつかもしれません。
もし、輝元が大坂城の軍を参戦させていたら?
輝元は、3万とも4万とも言われる軍勢を率いて大坂城にいました。結果的にはこの軍を使うことがなかったのですが、もし、彼が軍を率いて本戦に参戦していたら、どうなっていたのでしょうか。
関ヶ原においては、東軍が山に囲まれた窪地に布陣し、それを見下ろすような形で鶴翼の陣とも言われる形で西軍が布陣しています。布陣から見ると、西軍が圧倒的に有利です。
兵力は諸説ありますが、東軍が88,000に対して、西軍は85,000と言われています。
実際の戦況としては正午までは互角に戦っていましたが、それを一変させたのが、小早川秀秋の東軍への裏切りでした。
裏切りの理由も諸説ありますが、この裏切りによって、先ほどの兵力の均衡が崩れます。
開戦時の兵力を元に計算をすると、東軍は小早川秀秋の15,000を加えたことで10万を超え、西軍は抜けた事により70,000まで低下します。
しかし、輝元率いる大坂城の軍が関ヶ原へ参戦をしていたら、開戦時の兵力では西軍が優勢となり、この状況では小早川秀秋の裏切りもなく、西軍勝利というシナリオもあったのではないでしょうか。
最後に
毛利輝元が関ヶ原に参戦していたら、勝敗は変わっていたという可能性もゼロではないのではないでしょうか。
もちろん、その際には東軍にも徳川秀忠率いる部隊が到着していたらというシナリオはありますが、輝元の選択が違っていたなら、歴史が変わっていた可能性は十二分にあると思われます。
その後の人生において、彼はこの決断をどう思ったかは分かりませんが、彼のこの決断によって、天下が左右したのは間違いなさそうですね。
毛利軍を率いた彼がどう徳川家康率いる東軍と戦ったのか、見たかったような気がします。