新選組屈指の凄腕 斎藤一の愛刀の名前は?
泣く子も黙る「新撰組」の三番組組長、斎藤一。
副長助勤や隊の撃剣師範を務め、かの有名な池田屋事件を含めた数々の歴史的戦闘に参加して、その剣の腕を振るったと伝えられています。
そんな斎藤一と共に死線を潜り抜けてきた愛刀は、どんなものだったのでしょうか。
隊士たちの刀を知ることができる史料
出自がはっきりしないことや幾度もの改名、また多くを語ることなくその激動の生涯を終えたことにより、謎の多い人物とされていた斎藤一ですが、最近の研究ではずいぶんとその謎も解明されてきました。
後の世の多くの歴史小説家たちに影響を与えた、『新撰組始末記』『新撰組遺聞』などで知られる作家の子母澤寛が、新撰組関連の資料を集める際に発見したと言われる、新撰組の刀についての史料があるそうです。
それは『会津守護職様御預新撰組御一等様御刀改控』という、京都の壬生の刀研ぎ師、源龍斎俊永の記録です。32名の隊士の刀の銘と状態が克明に書かれた同書が、本物であるならば、「元治元年六月七日」と記されているので、元治元年六月五日におきた池田屋事件の二日後に研ぎに出された時のものと推測できます。
それによると、斎藤一の刀についてはこう記されています。
斎藤一 摂州住池田鬼神丸国重 二尺三寸一分 刃毀レ小サク無数
無数の小さな刃こぼれ。
池田屋には後発組として参加したと言われる斎藤一ですが、戦闘の跡が生々しく感じられます。
剣士 斎藤一の得物
では、『摂州住池田鬼神丸国重 天和二年九月』と銘の入った斎藤一の得物とは、どのような刀だったのでしょうか。
摂州住池田というのは、現在の大阪府池田市の地名です。そこに住んでいる鬼神丸国重という刀鍛冶が作った刀という意味です。鬼神丸国重は江戸、秋田、薩摩などでも刃作し、大乱れという刃文が得意だった刀匠と言われています。
上記の源龍斎俊永の改控に書かれていた長さは二尺三寸一分、現代の単位に直すと約70センチメートルとなっています。それが刃渡りですので、鍔や柄を加えると1メートルを少し超えたくらい。
刀に斬られた(刻印された)日付は、天和二年九月。天和二年とは西暦で1682年ですから、1864年の池田屋事件の時には、作られてからすでに182年も経っている計算になります。
斎藤一の剣の流派は、一刀流、無外流、太子流と諸説ありますが、新撰組の前身である試衛館時代は、近藤勇の流派、天然理心流を学んでいたはずです。斎藤一は銘刀に相応しい剣術の腕前を持つための稽古を重ねて青年時代を過ごしました。
鬼神丸国重にはどこで見れる?
斎藤一が実際に使用していた鬼神丸国重は、残念ながら現存していないと言われています。
ただし、同じ鬼神丸国重作の刀なら、見ることができます。現在のところでは、『倉敷刀剣美術館』と、同じ鬼神丸国重の作品としては脇差の展示がある『土方歳三函館記念館』です。
刀に興味のある人、または新撰組や斎藤一に興味がある人にはおすすめです。