実は新撰組最強!? 二番隊組長 永倉新八の伝説!
新撰組二番隊組長を務め、剣術師範も兼任した永倉新八。
彼は並み居る新撰組隊士の中でも最強だったという声も多く残っています。
そんな彼の最強?と思われるようなエピソードをご紹介していきます。
永倉新八と剣術
永倉新八の剣術の歴史は7歳の時から始まりました。
1846年、齢7歳にして岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。その後、めきめきと腕を上げ免許皆伝となっています。(芹沢鴨も同門の免許皆伝)
元服すると、松前藩を脱藩して剣術修行のために江戸を出て、各地で道場破りを行います。
その後、近藤勇が率いる天然理心流「試衛館」の食客となります。
そして、浪士組結成と共に京都へ上り、新撰組の初期メンバーとなりました。
ちなみに維新後は北海道に移り住み、刑務所で看守に対して剣術を教えたり、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)で剣道部を指導していました。
永倉新八のエピソード
新撰組結成後は組長兼剣術師範をしていた永倉新八。
彼は(芹沢鴨の暗殺以外)ほとんどの戦闘に参加しています。
池田屋事件の際は左手親指を負傷し、身につけていた武器防具もボロボロにされたにも関わらず、落ちていた刀を拾って4名を撃ち殺しました。
鳥羽・伏見の戦いでは甲冑を脱ぎ、刀一つで「決死隊」として突撃するという豪胆さを見せました。
がむしゃら+新八という名を合わせた「がむしん」というあだ名は永倉の性格をよく表していると言えるのではないでしょうか。
局長に対しても物怖じしない
池田屋事件で新撰組の名は世間に知れ渡りました。
すると近藤のわがままな振る舞いが目立つようになりました。
これを諫めるために永倉は他の5人の隊士たちと共に、脱退を覚悟で会津藩主:松平容保に非行5ヶ条を訴えました。
これ以降、近藤と一線を画しますが、信念を曲げず、相手が局長であろうとも恐れない永倉の豪胆さが表れています。
新撰組の中でどれくらい強かったのか
同じ新撰組の隊士、阿部十郎によると新撰組の中では「一に永倉、二に沖田(総司)、三に斎藤(一)」の順に強かったと言います。
また阿部は、「沖田総司が近藤勇の一番弟子でなかなか能く使えた。その次は斎藤一。そして永倉新八という人物もいたが、永倉は沖田より少し稽古が進んでいた」と言います。
「少し稽古が進んでいた」という言葉からすると、これは竹刀を使った時の話。
では実戦ではどうだったかというと、劣勢を強いられながらも、熾烈な争いを戦い抜いた池田屋事件の様子から見ても、永倉の実力は相当のものだったのでしょう。
やくざをも恐れさせる永倉の気迫
晩年は映画を好み、よく孫を連れて映画館を訪れていた永倉。
ある時映画館の前で地元のやくざにからまれましたが、その鋭い眼光と一喝でやくざを恐れさせ、退散させたという逸話が残っています。
数々の戦いを最前線で戦い抜いてきた永倉ですから、そんじょそこらのやくざに負けることはなかったでしょう。
また、永倉は酒に酔うと、ふんどし一枚になって体についた銃創を叩き、「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」と叫んだそうです。
体一つで戦い抜いてきた男の勲章といった感じでとてもかっこいいですね。