正岡子規の死因 脊椎カリエスとはどんな病気だった!?
正岡子規と聞いて皆さんは何を思いうかべるでしょうか。
” 柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺 ”
という俳句は、皆さんにも馴染みのある作品かもしれません。
正岡子規は、俳人、歌人、文筆家として、明治の文学者たちと共に、近代文学の基礎を作り上げました。
今回は、俳人正岡子規の生き方とその壮絶な最期をお伝えしたていきます。
幕末動乱の年に生まれる
松山藩士の正岡常尚と妻八重の間に長男として、正岡子規が生まれたのは、慶応3年9月17日(1897年10月14日)。
慶応3年といえば、大政奉還、王政復古の大号令、そして坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された年でもあります。
まさに、時代の大転換期に生まれた正岡子規は、学問的にも恵まれた環境で新しい時代の波を吸収しながら成長し、やがて上京、大学予備門(現東大教養学部)から帝国大学哲学科に入学、翌年には国文科に転科しています。
東大予備門では、生涯の友となる夏目漱石と出会い、大いに切磋琢磨しながら文学の道を進んでいきます。
その後、子規は大学を中退し、新聞社「日本」に勤務します。明治27年に日清戦争が始まると、従軍の記者として軍に同行して船に乗りました。
実はその時すでに、子規の体は病に蝕まれていたのです。
最初の喀血は子規、21歳のころ。そして軍船に乗って清国からの帰国途中、再度の喀血に見舞われ重篤な状態になりました。
病気の名前は『結核』、当時は不治の病とされた病でした。
「脊椎カリエス」とは
正岡子規の病は『結核』、そして、直接的な死因は、結核菌が脊椎を侵すことで発症する『脊椎カリエス』でした。
結核は現在ではすでに特効薬が生産され、第二次世界大戦以降の罹患者はさほどいませんが、明治期においては高い死亡率の病で、治療法は確立されていませんでした。
結核というのは、肺だけではなく他の臓器や骨や関節などにも発症します。
『脊椎カリエス』という難病は、病原菌により脊椎が破壊されて湾曲し痛み、半身不随や寝たきりになることもあります。
また、破壊された骨が膿になり、その溜まった膿が出口を求めて皮膚に穴をあけ、体外に流れ出るという、想像を絶する悲惨さ、そして激痛を伴う病気です。
子規が喀血をしてから、亡くなるまでの期間は七年間しかなく、亡くなる前のほぼ三年間は全くの寝たきりでした。
闘病生活の様子
船上で喀血をする以前にも、子規21歳のころに喀血し、結核であると診断されていました。
すでに俳句の世界で活躍し始めていましたが、『子規』の雅号はその頃から使い始めました。
『子規』とはホトトギスの異称。
血を吐くほど鳴き続けるという鳥、ホトトギスを、結核である自分と重ね合わせたのだと言います。
病を得ながらも、精力的に文学や日本に入ってきたばかりの野球にいそしんでいた子規の病状が悪化したのは、やはり戦争への参加でした。
船上での喀血の後、故郷松山での療養生活をするのですが、その時は旧制松山中学で英語教師をしていた親友夏目漱石の下宿に転がり込んでいます。
しかし、刻々と病状は悪化し続け、子規は再び上京し、根岸に居を構え寝たきりの生活へと突入していきます。
そんな子規の身の回りを世話したのは母の八重と妹の律でした。
寝たきりになった子規の背中には、膿の出る穴がいくつも空き、寝返りさえも打てない苦痛を鎮痛剤で紛らわせながら、「食べれば治る」とばかりに大食を続け、吐き、また食べ、鎮痛剤を飲む日々。
ときには余りの苦痛に、自殺すら考えることもあったようです。
正岡子規の残したもの
そのような日々を、子規はその独特な客観性で、文字にしていきます。
『仰臥漫録』『病床六尺』は、闘病記と呼ぶにはあまりにも客観的で「人に読まれる」前提で書かれています。
苦しいと、どうしても自分本位な文章になってしまいがちな闘病記も、彼がその短い人生で大成させた「写実」性をもって、現在でも生々しいほどの『生』を伝えてきます。
病床から見える景色を、聞こえる声を、己の苦しみを、言葉に残し続けた正岡子規。
筆を持つこともままならない子規の腕となり筆記をサポートしたり、滋養のある見舞いを欠かさなかった、弟子の高浜虚子、伊藤佐千夫、河東碧梧桐、長塚節らは、子規の死後も文学界で活躍していきます。
友人の夏目漱石は、子規の主催した俳句雑誌『ホトトギス』に、かの名作『坊ちゃん』が掲載されたのをきっかけに、文壇デビューを果たしました。
正岡子規が提唱し作品にし続けた「写実」性は、それまで松尾芭蕉を原点とした技巧性と哲学性の際立った「芭蕉風」が主流だった俳句界に、革命をもたらしました。
雅な風景観に囚われていた俳句の伝統を、19世紀ヨーロッパの自然主義の流れをむ、自然美をそのまま詠むという近代にも続く手法の確立に貢献したのです。
34年の壮絶な人生を駆け抜けた正岡子規は、明治35年(1902年)9月19日、家族に看取られつつその生涯を閉じました。
「 糸瓜の咲て痰のつまりし仏かな 」「 をとゝひのへちまも水も取らざりき 」「 痰一斗糸瓜の水も間にあはず 」
という三篇の辞世の句をもって、正岡子規の命日9月19日は、『糸瓜忌』と呼ばれています。