関ヶ原の戦いは豊臣家の為の戦いだった? 忠臣、福島正則の胸の内とは
豊臣秀吉に可愛がられ、沢山の手柄を立てた猛将、福島正則。関ヶ原の戦いにおいて彼が東軍についた事は戦いの結末を左右した出来事でした。
しかし、彼はなぜ豊臣家を裏切ったのでしょう。
猛将の心の内を探ってみたいと思います。
諸将の進退を決めさせた小山評定
福島正則は1561年、尾張国海東郡二寺村(現在の愛知県あま市)で桶屋をしていた福島正信の長男として生まれました。母親が豊臣秀吉の叔母であり、その縁もあって正則は小姓として秀吉に仕える事になります。
「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる活躍をしており、朝鮮出兵でも李舜臣率いる水軍相手に奮闘しており、数々の手柄を立てています。
しかし、秀吉が亡くなると、石田三成らと反発しあうようになり、徳川家康に近づきます。
その為、自分の養子と家康の養女を結婚させますが、これは他の重臣に相談なく行われた結婚(私婚)だとして家康と三成の亀裂を決定的にさせた出来事になりました。
関ヶ原の戦いは豊臣家の為の戦いだった?
関ヶ原の戦いでは福島正則は東軍、徳川家康側についています。その時、正則が浅野長政に書送った手紙が残されていますが、そこには「秀頼様の為に良い結果になるように」力を尽くすと書かれています。つまり、正則の裏切りは豊臣家を見放した物ではなく、豊臣家の為の裏切りだったようなのです。
豊臣家の為には石田三成のような悪臣は除かなくてはいけない、その思いが正則を東軍につかせたのでした。
三成が挙兵した際、正則は家康と共に東北の上杉景勝の討伐に向かっていました。そして、小山でそれを知らされ、家康から「あなた達の妻子は人質として大阪城にいる。三成に味方したとしても恨みには思わないから思い通りにするように」と告げられると真っ先に家康に味方すると答えました。「これは全て三成が謀ったこと。8歳の秀頼公にそんな考えがあるはずもない。他の方がどうあれ自分は家康殿に味方する」
正則の言葉に他の武将もこぞって家康に味方をすることになります。これが小山評定と呼ばれる物ですが、ここからは三成が豊臣家を蝕む悪臣であるとの思い、そして家康はそれを正してくれるのだという信頼が見られます。
家康の裏切りとその後の福島正則
関ヶ原の戦いでは正則は東軍の戦法として宇喜多秀家隊と猛烈な戦いを繰り広げました。彼の活躍を家康も生涯忘れないと惜しみなく称賛しています。
福島正則は広島に49万8200石を与えられました。広島城に入った正則は直ちに検地と刀狩りを行い、年貢を減らすなど善政を敷きます。しかし、ここで正則の思ってもみなかっただろう事態が起こります。家康が豊臣家に戦を仕掛け、滅ぼしてしまったのです。
大阪冬の陣、夏の陣共の時、家康は正則に出陣を命じずに江戸に置いて監視しました。それは正則の忠義心を知っていて、警戒した為でした。信じていた家康の野望を知って、正則はさぞ悔しかったでしょう。結局、豊臣家は家康に滅ぼされ、天下は徳川家の物になってしまいます。
そして、家康も亡くなって秀忠の時代になっていた元和3年(1617年)広島で起きた洪水の為崩れた城壁を無断で修復したとして正則の領地は没収され、長野県川中島の4万5千石に減封されてしまいます。とことん徳川方に利用され続けた後半生でした。
福島正則にとって、親戚でもあり小姓の頃から可愛がってもらった豊臣秀吉への恩は何よりも深い物でした。関ヶ原の戦いで家康に味方したとしてもそれが変わった訳ではありません。
しかし、家康についた、つまり裏切ったとされてしまうのは何とも可哀想な評価だと思います。現に家康は関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋ら豊臣家を裏切った武将には冷たかったと言います。その中で評価された福島正則は筋を通した忠臣だったと考えることができるでしょう。しかし、その為に後に彼は没落させられてしまうのですが……。
まとめ
家康に利用された忠臣、福島正則。彼にはその人柄を示すエピソードがあります。一つは浮気したことを知った夫人に薙刀で斬りつけられた事。
何事かと思う出来事ですが、正則は「敵に後ろを見せた事はなかったけれど今度ばかりは見せてしまった」と笑い話にしています。
また、酒が大好きで家臣に飲み比べを挑んだ所、まんまと天下三名槍と呼ばれる日本号を譲るはめになってしまったというエピソードもあります。まっすぐだけど、奥さんには弱くて、お酒の失敗もしたりする、福島正則はそんな人間味のある人だったのかもしれませんね。